もう待っていた。押丁が預托品の合札を取り上げて、代りに小刀を渡して、あらあらしく云った。「どうもお前はこの上もない下等な人間だな。たった一人の子を打ちに、ここからわざわざ帰って行く奴があるか。」
 ツァウォツキイは黙っていた。それでも押丁がまた小刀を胸に挿してやった時は、溜息を衝いた。
 押丁はツァウォツキイの肩を掴んで、鉄の車に載せて、地獄へ下らせた。
 ツァウォツキイは薔薇色の火の中から、赤い燃える火の中へ往った。そこで永遠に烹《に》られて、痛がって、吠えているのだろう。
 ツァウォツキイの話はこれでしまいだ。
 話が代って娑婆の事になる。娘は部屋に帰って母に話した。「おっ母さん。あのぼろぼろになった着物を着た男がまいりましたの。厭な顔をしてわたしを見ましたから、戸を締めようと思いましたの。目が変に光っていて、その目で泣くかと思うと、口では笑っているのですもの。わたしが戸を締めようとすると、わたしの手を打ちましたの。ひどく打ったようでしたが、ただ音がしたばかりでしたの。」
 ユリアは何か亡くした物でも捜すように、床の上を見た。そして声を震わせて云った。「そう。それからどうしたの。」
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