が忽然今一度かっと燃え立った。人を怨み世を怨む抑鬱不平の念が潮のように涌いて来た。
今娘が戸の握りを握って、永遠に別れて帰ろうとするツァウォツキイの鼻のさきで、戸を締め切ろうとした瞬間に、ツァウォツキイは右の拳を振り上げて、娘の白い、小さい手を打った。
娘はツァウォツキイの顔をじっと見た。そして再び戸の握りを握ってばったり戸を締めた。錠を卸すきしめきが聞えた。
ツァウォツキイはぼんやり戸の外に立っている。刹那に発した怒りは刹那に消え去って、ツァウォツキイはもう我子を打ったことをひどく恥ずかしく思っている。
ツァウォツキイは間の悪げにあたりを見廻した。そして小刀で刺した心の臓の痛み出すのを感じた。
それからツァウォツキイは急いで帰った。どっちへ向いて歩いているか、自分には分からない。しかし一度死んだものは、死に向って帰って行くより外無いのである。
初め旅立をした大きい家に帰り着いた頃は、日が暮れてから大ぶ時間が立っていた。
ここにはもう万事知れている。門番が詰所から挨拶をすると、ツァウォツキイは間が悪いので、頭を下げて通った。それから黙って二階の役人の前へ届けに出た。役人はもう待っていた。押丁が預托品の合札を取り上げて、代りに小刀を渡して、あらあらしく云った。「どうもお前はこの上もない下等な人間だな。たった一人の子を打ちに、ここからわざわざ帰って行く奴があるか。」
ツァウォツキイは黙っていた。それでも押丁がまた小刀を胸に挿してやった時は、溜息を衝いた。
押丁はツァウォツキイの肩を掴んで、鉄の車に載せて、地獄へ下らせた。
ツァウォツキイは薔薇色の火の中から、赤い燃える火の中へ往った。そこで永遠に烹《に》られて、痛がって、吠えているのだろう。
ツァウォツキイの話はこれでしまいだ。
話が代って娑婆の事になる。娘は部屋に帰って母に話した。「おっ母さん。あのぼろぼろになった着物を着た男がまいりましたの。厭な顔をしてわたしを見ましたから、戸を締めようと思いましたの。目が変に光っていて、その目で泣くかと思うと、口では笑っているのですもの。わたしが戸を締めようとすると、わたしの手を打ちましたの。ひどく打ったようでしたが、ただ音がしたばかりでしたの。」
ユリアは何か亡くした物でも捜すように、床の上を見た。そして声を震わせて云った。「そう。それからどうしたの。」
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