るらしい。サモワルはいつものやうに、綺麗に手入れがしてあつて、卓に被つてある布《きれ》も雪のやうに白い。パンは柔かさうに褐色《かちいろ》に焼けてゐて、薫が好い。その薫を嗅いでゐるボロニユ産の小狗は、舌を出して口の周囲《まはり》を舐めながら、数日|前《ぜん》に主人にじやれたやうに、学士にじやれる。何もかも不断の通りで、何事もあつたらしくはない。矢張いつものやうに、今持つて来たばかりのポシエホンスキイ・ヘロルド新聞も、卓の上に置いてある。この地方新聞は活版の墨汁《インキ》の匂、湿つた紙の匂、それから何か分からない、或る物の匂がする。一体夫人の言ひ附けで、もう此新聞を目に見える処へ持つて来てはならないことになつてゐるのを、女中が忘れて、つひ此卓の上に置いたのである。
「あら。又新聞を机の上に置いたね。持つて来ておくれでないと云つたぢやないか」と、夫人は囁くやうに云つて、顔をサモワルの蔭に隠した。目が涙ぐんで来たからである。
学生は一寸肩をゆすつて、新聞を持つて、どこかへ隠しに行つた。そして帰つて来て見ると、母はまだ泣いてゐる。
「あれがお父うさんを殺すのだよ」と、サモワルの蔭から囁きの声が
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