待つてゐる。受話器を持つてゐる手は震える。鼻の頭には大きな汗の玉が出てゐる。顔の表情には非常な恐怖が見えてゐる。長官はなんと云つたか知らないが、定めてひどく恐れ入らせられたことであらう。受話器を鉤に掛けた時には、常のやうに椅子へ復《かへ》ることが出来ないで、重い荷を負《しよ》はせられて、力の抜けた人のやうに、椅子の上に倒れた。そして目を瞑《ねむ》つて、長い間ぢつとしてゐた。只受話器を持つた左の手がぶる/\慄えてゐる。そして右の目の筋肉が痙攣を起してゐる。
 プラトンは水を一ぱい飲んだ。併し全身の疲労と不安とは恢復しない。脈が結代《けつたい》する。外貌は定めて余程あぶなく見えたであらう。その室に這入つて来た下級参事官は、もう此人も長くはない。此位置が明くなと思つたさうである。どうも気分が悪くて事務が執れないと云つて、辻馬車に乗つて帰つた。午食《ひるめし》は食べたくないと云つて食はなかつた。晩方印刷所から校正刷を持つた小僧が来た時には、プラトンは少しも見ずに、どの紙にも認可と書いて渡した。そして夫人にかう云つた。
「グラツシヤアや。どうも己はもう駄目らしいよ。」
 電話の鈴《りん》が鳴る度
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