はどうか取り留めて戴きまして、恩給の戴けるやうになるまで、もう三年お勤をいたして、そこでお役を罷めるのなら、宜しうございますが。いゝえ。どうもそんな都合の好い事にはなりますまいと存じます。あんなに弱り切つてゐますからね。まあ、なんと云ふ厭な新聞でせう。わたくし共一|家《け》が立ち行かなくなるのは、あの新聞のお蔭でございます。宅は検閲官といふものになりました、あの日から不為合《ふしあは》せになつたのでございます。毎日々々喧嘩があります。大声を立てる。訴訟沙汰や、面倒な事が出来る。それで宅は気が苛々いたしてまゐりまして、物をおいしく戴くことが出来なくなりますし、夜もおち/\休むことが出来なくなりましたのでございます。段々にかう気が鬱してまゐりまして、自分が悪人で人が自分を掴まへて為置《しお》きにでもいたさうとして、網を張つてゐるやうな心持になりまして、此二三年といふものは、気抜けがしたやうに、ぶら/\してゐましたのでございます。そしてとう/\あんな風になりまして。」初めは少し気が晴れた様子で、深い息をして言ひ出したのが、しまひには又悲しげになつて、とう/\ハンカチイフを出して目を押へた。「とう/\あんな風になりまして」と、二度目に繰り返す声は、聞き取りにくい程微かであつた。
「成行を考へて見ますと悲しうございます」と、夫人は病気の顛末を話した。
 プラトンは、多くも少くもない、中等の俸給を貰つてゐる役人の常として、これまで始終控へ目勝ちに、平穏な生活をしてゐた。困窮もしないが、贅沢にも陥いらない。心に明るい印象を受けず、深い感じも起さずに、灰色の歓喜、灰色の苦労から成り立つた灰色の生活をしてゐた。此人の幸福は無智な、狭隘《けいふあい》な人物の幸福であつた。此人は善良なるハアトを持つてゐた。併しその鼓動は余り高まることが無い。それに家族以外の事には感動しないハアトなのである。此人の精神上の地平線は、自分が参事官の下級から上級まで歴昇《へのぼ》つた地方庁と、骨牌《かるた》遊びをする、緑色の切れの掛けてある卓《つくゑ》を中心にした倶楽部との外に出でない。一切の事物が平穏に経過して行く。譬へば軌道の上を走るやうな生活である。極まつた年限を勤めるごとに、きちんと進級する。一度は珍らしくスタニスラウスの三等勲章を貰つたこともある。家族が殖えると同時に、俸給が増す。
 高等学校に入れてある倅は、好い成績も得ないが、それだと云つて、進歩の悪い方でもない。足で蹴られる小桶のやうに、下の級から上の級へ押し遣られてゐる。娘ニノチユカは段々大きくなる。カナリア鳥は囀る。イイスタア祭になると、賞与を貰ふ。
 春夏秋冬が交る/″\過ぎて、幾年にかなつた。相応な年配になると、病気が出る。痔が起る。頭が禿げる。顔の皺が段々繁くなる。とう/\プラトンは五十八歳になつた。
 プラトンは年齢の割には丈夫である。外の人はまだ下級参事官でゐるうちに、標本のやうに干からびたり、考古学の参考品のやうな形になつたりする。プラトンばかりは、奥さんの詞で言へば、「まだ御用に立つ男」である。当人ももう生涯が残り少なくなつて、程なく窮屈な箱に入れて、最終の届先へ遣られようと云ふ立場に到着する筈でありながら、そんな事は思はずに、未来に望を属してゐた。
 市へ新しい地方長官が来た。公民の進歩派が多年発行したがつてゐる新聞紙を、これまでの長官は抑へて出させずにゐたのに、新長官は一般の為めに有益だと云つて、出させることにした。多年の希望は実現せられた。市は始て輿論の機関を得た。題号はポシエホンスキイ・ヘロルドと云ふのである。
 地方には副長官といふものがある。併し現に此職にゐる人は断えず旅行してゐる。冬はクリムにゐる。夏はカウカズスにゐる。旅行してゐない時はきつと病気である。そこで新聞紙の検閲官の役を、最古参の参事官即ちプラトンが担任することになつた。
 さて発行認許がいよ/\下がつたと云ふことになると、市中のものが讙呼《くわんこ》して喜んだ。道に逢ふものが祝賀を言ひ交してゐる。これからは市の生活が一変するだらうと思つたのである。大通りの家に金めつきの看板が掛かつて、それに「ヘロルド編輯局」と書いてある。初号を出す時には、例の如く会堂でお祭をした。新聞に関係のある人達が大勢集つて祈祷をして、長官の万歳を唱へた。編輯長以下新聞社員一同これに和した。プラトンも臨席してゐたが、誰も構つてくれないので、頗る不平であつた。長官が演説をした。華やかな、山のある演説であつたので、一同拍手して、心から敬服した。プラトンも拍手した。併しヂアコヌスの背後《うしろ》で、余り際立たないやうに、謂《い》はば二本指を打ち合せるやうな拍手をしたのである。それは拍手なんぞをして、長官が喜ぶか、おこるか、分からなかつたからであ
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