るらしい。サモワルはいつものやうに、綺麗に手入れがしてあつて、卓に被つてある布《きれ》も雪のやうに白い。パンは柔かさうに褐色《かちいろ》に焼けてゐて、薫が好い。その薫を嗅いでゐるボロニユ産の小狗は、舌を出して口の周囲《まはり》を舐めながら、数日|前《ぜん》に主人にじやれたやうに、学士にじやれる。何もかも不断の通りで、何事もあつたらしくはない。矢張いつものやうに、今持つて来たばかりのポシエホンスキイ・ヘロルド新聞も、卓の上に置いてある。この地方新聞は活版の墨汁《インキ》の匂、湿つた紙の匂、それから何か分からない、或る物の匂がする。一体夫人の言ひ附けで、もう此新聞を目に見える処へ持つて来てはならないことになつてゐるのを、女中が忘れて、つひ此卓の上に置いたのである。
「あら。又新聞を机の上に置いたね。持つて来ておくれでないと云つたぢやないか」と、夫人は囁くやうに云つて、顔をサモワルの蔭に隠した。目が涙ぐんで来たからである。
学生は一寸肩をゆすつて、新聞を持つて、どこかへ隠しに行つた。そして帰つて来て見ると、母はまだ泣いてゐる。
「あれがお父うさんを殺すのだよ」と、サモワルの蔭から囁きの声が漏れた。そして卓が少しぐら附いて、上に載せてある器《うつは》が触れ合つて鳴つた。
「奥さん。困りますな。お泣きになるにはまだちつと早過ぎます。お歎きになる理由がありません。」学士は匙で茶を掻き交ぜながら、かう云つた。「まだ好くなるかも知れません。足が立つて、目が明かないには限りません。落胆なさつてはいけない。あなたも、御主人も、落ち着いてお出になるのが肝心です。あんまり御心配なさり過ぎる。あの大佐の先生はどうです。両脚ともなくなつてゐますぢやありませんか。泣きなんぞはしない。立派に暮してゐる。上機嫌でさあ。恩給を頂戴して、天帝の徳を称へてゐるのです。」学士はかう語り続けた。
「宅なんぞでは、まだ三年勤めなくては、恩給は戴けません。」サモワルの蔭から、夫人は悲しげな声でかう云つて、涙を拭いた。「それに子供も二人あります。」かう云つて鼻をかんだ。
「二人あつて結構ぢやありませんか。兄いさんは学士になつて、お役人になります。無論出版物検閲官丈は御免を蒙るですな。蜻※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]も大きくなつて、およめに行きます。きつとすばらしい、えらい婿さんがありますよ。」
「それ
前へ
次へ
全18ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング