です。列氏の十八度とは恐れ入りましたね。御病人は。」
「あの矢張休んでゐます。先程お茶とパンを一つ戴きました。右の手はまだちつとも動きません。足の方も動きませんの。それに目も片々《かた/\》は好く見えないと申しますが。」
「好うがす、好うがす。何もそんなに心配なさらなくても宜しい。沓がきゆつきゆと云ふには驚きましたよ。列氏十八度ですからね。」
 学士はカナリア鳥をちよいと見て、ニノチユカの少し濃い明色《めいしよく》の髪を撫でて、かう云つて揶揄《からか》つた。
「どうだい。蜻※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]《とんぼ》。旨く飛べるかい。」
「あたい蜻※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]なんかぢやなくつてよ。」
「そんなら蚤だ。」
「あたいが蚤なら、あなたは南京虫よ。」不服らしい表情で、頭を俯向けて、かう云つた。
「はゝゝ。」学士は声高に笑つた。
 娘はゴム毬を持つた手を背中に廻して、壁に附いて立つてゐて、口の悪いをぢさんを睨んでゐる。学士は中肉中背の男である。年頃は中年である。顔は人が好ささうで、目は笑つてゐる。性質は静かで、恬澹《てんたん》で、そして立居振舞を、ひどく気を附けて、温和にしてゐる。此人はいつも機嫌が好い。「今一寸御馳走になつて来たところです」とか、「今一寸昼寝をして元気を附けたところです」とか云ふ、その様子が生々してゐて、世を面白く暮す人と受け取られる。病人や、病家の人達に、此人の態度は好影響を及ぼす。新しい希望を生ぜしむる。勿論その希望は空頼《そらだの》めなこともあるが、こんな人達のためには、それが必要なのである。
「あの、宅が目の醒めまするまで、あちらへお出を願つて、何か少し差上げたいのでございますが」と、夫人が云つた。
「いや。丁度今少し御馳走になつて来たところです。酒を一杯。パアテを二つ遣つて来ました。一つは肉を詰めたので、一つはシユウを詰めたのでしたよ。」
「そんならお茶なりとも」と、夫人は泣き出しさうな声で勧めた。
「お茶ですか。なる程、ぢやあ頂戴しませうかな。こんな寒い日には悪くないですな。」
 一同食堂に這入つた。こゝには卓の上に、てら/\光る、気持の好い、腹のふくらんだサモワルがたぎつてゐる。そしてバタ附きのパンの匂がする。明るい居心の好い一間である。どうも主人が病気で、腰が立たないと云ふことなんぞは、此食堂は知らずにゐ
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