ければ、盗賊もいないからである。斜面をなしている海辺《かいへん》の地の上に、神の平和のようなものが広がっている。何もかも故郷《こきょう》のドイツなどとは違う。更けても暗くはならない、此頃《このごろ》の六月の夜《よ》の薄明りの、褪《さ》めたような色の光線にも、また翌日の朝焼けまで微《かす》かに光り止《や》まない、空想的な、不思議に優しい調子の、薄色の夕日の景色にも、また暴風《あらし》の来そうな、薄黒い空の下で、銀鼠色《ぎんねずみいろ》に光っている海にも、また海岸に棲んでいる人民の異様な目にも、どの中にも一種の秘密がある。遠い北国《ほっこく》の謎《なぞ》がある。静かな夏の日に、北風が持って来る、あちらの地極世界の沈黙と憂鬱《ゆううつ》とがある。
 己は静かな所で為事《しごと》をしようと思って、この海岸のある部落の、小さい下宿に住み込んだ。青々とした蔓草《つるぐさ》の巻き付いている、その家に越して来た当座の、ある日の午前《ごぜん》であった。己の部屋の窓を叩《たた》いたものがある。
「誰《たれ》か」と云《い》って、その這入《はい》った男を見て、己は目を大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。
 背の高い、立派な男である。この土地で奴僕《ぬぼく》の締める浅葱《あさぎ》の前掛を締めている。男は響の好《よ》い、節奏のはっきりしたデネマルク語で、もし靴が一足間違ってはいないかと問うた。
 果して己は間違った靴を一足受け取っていた。男は自分の過《あやまち》を謝した。
 その時己はこの男の名を問うたが、なぜそんな事をしたのだか分からない。多分体格の立派なのと、項《うなじ》を反《そら》せて、傲然《ごうぜん》としているのとのためであっただろう。
「エルリングです」と答えて、軽く会釈して、男は出て行った。
 エルリングというのは古い、立派な、北国《ほっこく》の王の名である。それを靴を磨く男が名告《なの》っている。ドイツにもフリイドリヒという奴僕はいる。しかしまさかアルミニウスという名は付けない。この土地はおさんにインゲボルクがいたり、小間使にエッダがいたりする。それがそういう立派な名を汚《けが》すわけでもない。
 己はいつまでもエルリングの事を忘れる事が出来なかった。あの男のどこが、こんなに己の注意を惹《ひ》いたのだか、己の部屋に這入っていた時間が余り短かったので、なん
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