見て暮らしているうちに、ある日わたくしの夫婦生活の平和が瓦解《がかい》してしまいました。夫が不実になったと云うことは、田舎の女のためには夫婦の破滅でございます。夫婦と恋とを引放して考えることの出来ない女のためには、そう思われるのでございます。
 楫《かじ》をなくした舟のように、わたくしは途方にくれました。どちらへ向いて見ても活路を見出すことが出来ません。わたくしはとうとう夢に向って走りました。ちょうど生埋めにせられた人が光明を求め空気を求めると同じ事でございます。
 わたくしは突然今の夫を棄てて、パリイへ出て、昔あなたのおいでになる日の午後を待っていたように、パリイであなたが折々おいで下さるのを楽しみにして暮らそうと思い立ちました。どうぞわたくしを気が違ったとお思いなさらないで下さいまし。田舎の女をわたくしの境界に置きましたら、随分わたくしと同じ思立《おもいたち》をいたす女があろうかと存じます。これはただ思立つだけの事でございます。それを実行いたすとなると、どんな物になるだろうと云うことは、ロメエヌ町の家であなたを隙見をいたすまで、わたくしには分からなかったのでございます。
 隙見をいたした時の最初の感じは失望でございました。Sport で鍛錬した、強壮なお体で、どんな女でも来てみろと云うお心持で、長椅子に掛けていらっしゃったあなたに失望いたしたので、昔の世慣れない姿勢の悪い青年でいらっしゃらないのに当惑いたしたのでございます。それで客間に這入り兼ねていました。
 その時あなたは起ち上がって戸の傍までおいでなさいました。わたくしはあなたを遺憾なくはっきり拝することが出来ました。わたくしは胸が裂けるように動悸がいたしました。そしてあなたが好きになりました。やはり十六年前の青年よりは今のあなたの方が好きだと存じました。
 あなたのような種類の人、あなたのように智慧がおありになり、しっかりしておいでになって、そして様子のいいお方、そう云う人にイソダンでめったに出逢うことのないのは当り前でございます。わたくしはすぐにそう思いました。こう云う人の前に出たら、わたくしは意志も何もない物になってしまいましょう。その人が気まぐれにどうでもすることの出来るおもちゃになってしまいましょう。
 そう云う運命に陥いるだろうと思ったので、わたくしは烈しい恐怖に襲われました。わたくしの心の臓は痙攣《けいれん》したように縮みました。ちょうどもうあなたの丈夫な、白いお手に握られてしまったようでございました。あの時の苦しさを思えば、今の夫に不実をせられたと思った時の苦しさはなんでもございません。わたくしの美しい夢はこのとき消えてしまいました。
 わたくしはどうしてもあなたにお目に掛かるまいと決心いたしました。それと同時にわたくしは思いました。わたくしがあなたを思うほど、あなたがわたくしを思って下さるまでは、わたくしの心は永久に落ち着くことは出来まいと云うのでございます。わたくしを愛して下さることがあなたに出来るだろうかと云うのでございます。
 最初にあなたに上げた手紙に書き添えました事は嘘ではございません。わたくしは十六年前と今と格別変ってはいません。道を歩けば男の附いて来ることは昔の通りでございます。イソダンでそうだと申すのではございません。パリイで歩いても同じ事でございます。しかしあなたのためには、田舎女のわたくしがなんでございましょう。ほんのちょいとの間の気まぐれで、おもちゃにして下さるかも知れませんが、深い恋をして下さろうとは思われません。それがあの時わたくしの胸に電光のように徹しました。自分の弱点を恥じる心が、嫌われるだろうと思う疑懼《ぎく》に交って、とうとうわたくしをあの場から逃げさせてしまいました。わたくしは自分の恐ろしい運命を避けよう、どうしてもあなたにお目に掛かるまいと決心いたしました。わたくしは帽子を取って被って、女中にお断りを申上げるように言い附けて置いて、あの家に火事でも起ったように跡をも見ずに逃げました。
 わたくしはきのうからイソダンに帰っています。主人は今晩帰るはずになっています。わたくしはもう夫に怨を申すことは出来ません。それは自分がほとんど同じような不実をいたしたからでございます。
 わたくしはこれまでのような、単調な生活を続けてまいりましょう。田舎の女にはそれが当り前なのでございます。ちらと拝しました「先生」のお姿はもう次第にぼやけてまいります。そして昔親しかった青年の姿が復活してまいります。これからはまたあの十七歳の青年の人を夢に見て、それを楽しみにいたしていましょう。
 ピエエルさん。さようなら。もうまたとお目に掛かることはございません。どうぞ悪く思召さないでわたくしの事を御記憶なすって下さいまし。わたくしはあなたに無窮
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