わたくしはただいま白状いたします。わたくしはもう十六年前にあなたに恋をいたしていました。あなたが高等学校をお出になったばっかりの世慣れない青年でいらっしゃった時、わたくしはもうあなたに恋をいたしていました。しかしわたくしはあなたに誓います。それがわたくしに分かったのは一昨日のことでございます。あのロメエヌ町の白い客間にいらっしゃるのを隙見《すきみ》をいたした時、それが分かったのでございます。
わたくしは隙見をいたしました。長い、長い間わたくしはあの硝子戸《ガラスど》の傍に立ってあなたを見ていました。あなたの方からは見えませんのですが、わたくしは暗い方にいましたからあなたをはっきり見ることが出来ました。決してわたくしが陰険な事をいたしたとか、あなたを羂《わな》に掛けたとかお思いになってはいけません。わたくしは戸を開けるつもりで戸の傍に歩み寄って、ただちょっとあなたの御様子を開ける前に見たいと存じただけでございます。あなたは心理学者でいらっしゃいますから、これがまたひどく女らしい振舞だとお思いなさいましょうね。
あの一|刹那《せつな》にわたくしの運命は定まったのでございます。わたくしは開けようと思った戸を開けずに、帷《とばり》の蔭に隠れていました。わたくしはただいま書く事をどう書いたら、あなたがお分かりになるだろうかと存じて、それに苦心をいたします。
ピエエルさん。何よりさきにあなたに申さなくてはならないのは、あなたのお作の中《うち》に出て来る女とわたくしとは違うと申す事でございます。何もわたくしが一人ひどく変った女だと申すのではございません。わたくしはただ当り前の田舎の女でございます。わたくしの母がそうであったような、わたくしの二人の姉妹が今でもそうであるような、ただ当り前の田舎の女でございます。その田舎の女とはどんな物かと申しますと、恋の実体を夫婦と云う事から引き放して考えることの出来ない女だと申すのでございます。これは多数の女のために極めて不幸な事でございます。そしてわたくしはその不幸を身に受けなくてはならぬ一人でございます。
誰やらの書いた本に、「幸福なる夫婦は極めて稀なり」と云う文句がございました。作者の名をつい忘れましたが、きっと田舎にいたことのある人だろうと存じます。
それですから行状を善くしている田舎の女は、たいてい夫婦の生活をいたしている外に、別な夢の生活を持っています。無条件にその夢に身を任せている女もあり、良心と戦いながらその夢を見ている女もありますが、どちらもこの夢の恋は platonique なのでございます。この platonisme が夢の美しいところで、それが無かったら、そう云う女は重婚をいたしているような心持がいたすでしょう。
これだけの説明をいたすのが、わたくしには一通りの骨折ではございませんでした。しかし聡明な、敏捷《びんしょう》な思索家でいらっしゃるあなたには、わたくしの思っている事は、造做《ぞうさ》もなくお分りになりましょう。
あなたがまだ高等学校をお出になったばかりの青年で、わたくしの所へおいでになったころ、わたくしはその日の午後を楽しみにいたしていました。しかしもしあの時のあなたが、いつかお書きになった「若い盗人」と云う小説の中《うち》の青年のような早熟の人でおいでになったら、わたくしはきっとあなたのおいでをお断り申しただろうと存じます。
あなたとわたくしとの中は、夢より外に一歩も踏み出さない中だと云うことが、あのころわたくしには分かっていました。あなたを夫に持つことは不可能だということが分かっていました。事によったら、あなたを夫に持ちたくは無かったかも知れません。それですからわたくしは二度目の夫を持ちましても、あなたの記念を涜《けが》したのではございません。二度目の夫を持ってからも、わたくしはやはり前の夢の続きを見ていました。
この夢があるので、わたくしは多少良心に責められたこともあります。しかしわたくしはあなたに誓います。わたくしはあなたが田舎の夫が妻に要求するような要求をなさることがあろうとは、一度も思ったことはありません。それは田舎の夫が妻に要求する主な勤めで、事によったら世間のあらゆる夫が妻に要求する主な勤めかも知れません。それですからわたくしはあなたがパリイでどんな女とどんな事をなさろうとも、嫉妬を感じたことはございません。それはどんな貴婦人でも、どんな賤しい女でも、わたくしの夢までを奪ってしまうことは出来ないからでございます。それにわたくしには可笑しい自負心がございますの。それはわたくしが十六年前にあなたにいたしたような、はにかみながらのキスに籠もっているほどの物を、どの女もあなたに捧げることは出来まいと存じているのでございます。
わたくしはこんな夢を
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