まイソダンに立っていたって、なんの不思議もあるまい。町に面した住いは低く出来ていて、入口の左右に小さい店がある。入口から這入《はい》る所は狭いベトンの道になっていて、それが綺麗に掃除してある。奥の正面に引っ込んだ住いがある。別荘造りのような構えで、真ん中に広い階段があって、右の隅に寄せて勝手口の梯《はしご》が設けてある。家番《やばん》に問えば、目指す家は奥の住いだと云った。
 オオビュルナンは階段を登ってベルを鳴らした。戸の内で囁《ささや》く声と足音とがして、しばらくしてから戸が開いた。出て来たのは三十歳ばかりの下女で、人を馬鹿にしたような顔をして客を見ている。
「ジネストの奥さんはおいでかね。」
 下女は黙って客間の口を指さした。オオビュルナンはそこへ這入った。室内装飾は有りふれた現代式である。白地に文様のある紙で壁を張り、やはり白地に文様のある布で家具が包んである。木道具や窓の龕《がん》が茶色にくすんで見えるのに、幼穉《ようち》な現代式が施してあるので、異様な感じがする。一方に白塗のピアノが据《す》え附けてあって、その傍に Liberty の薄絹を張った硝子戸《ガラスど》がある。隣の室に通じているのであろう。随分無趣味な装飾ではあるが、住心地の悪くなさそうな一間である。オオビュルナンは窓の下にある気の利いた細工の長椅子に腰を掛けた。
 オオビュルナンは少し動悸がするように感じて、我ながら、不思議だと思った。相手の女が同じ人であるだけに、過ぎ去った日のあらゆる感情が復活して来たのだろうか。今の疑懼《ぎく》の心持は昔マドレエヌの家の小さい客間で、女主人の出て来るのを待ち受けた時と同じではないか。人間の記憶は全く意志の掣肘《せいちゅう》を受けずに古い閲歴を堅固に保存して置くものである。そう云う閲歴は官能的閲歴である。オオビュルナンはマドレエヌの昔使っていた香水の匂い、それから手箱の蓋を取って何やら出したこと、それからその時の室内の午後の空気を思い出した。この記念があんまりはっきりしているので、三十三歳の世慣れ切った小説家の胸が、たしかに高等学校時代の青年の胸のように躍った。ただ昔と今と違っているのは、今はそのあらゆる感動が一々意識に上って、他日筆にする材料として保存せられるだけである。
 突然オオビュルナンは物に驚いて身を振り向けた。そっと硝子戸を開けたような音がしたのである。しかしそれは錯覚であったとみえて、誰も室内へ這入って来てはいない。オオビュルナンは起ち上がって、戸の傍へ歩み寄った。薄絹が少し動いたようではあるが、何も見えない。多分風であっただろう。
 オオビュルナンは口の内でつぶやいた。「これでは余り優待せられると云うものではないな。もうかれこれ二十分から待たせられている。どうしたと云うのだろう。事によったら馬鹿な下女奴《げじょめ》が、奥へ通さずにしまったのではないかしら。とにかくまあ、待っているとしよう。や、来たな。」最後の一句は廊下に足音が聞えたから言ったのである。その足音はたしかに硝子戸に近づいて来る。オオビュルナンは覚えず居ずまいを直して、蹙《しか》めた顔を元に戻した。ちょうど世話物の三幕目でいざと云う場になる前に、色男の役をする俳優が身繕《みづくろ》いをすると云う体裁である。
 はてな。誰も客間には這入って来ない。廊下から外へ出る口の戸をしずかに開けて、またしずかに締めたらしい。中庭を通り抜ける人影がある。それが女の姿で、中庭から町へ出て行く。オオビュルナンはほっと息を衝《つ》いた。「そうだ。マドレエヌの所へ友達の女が来ていてそれがやっと今帰って行ったのだな。」こう思ってまた五六分間待った。そのうちそろそろ我慢がし切れなくなった。余り人を馬鹿にしているじゃないか。オオビュルナンはどこかにベルがありそうなものだと、壁を見廻した。
 この時下女が客間に来た。頬っぺたが前に見た時より赤くなっていて、表情が前に見た時より馬鹿らしく見えている。そして黙って戸の際《きわ》に立っている。
 客の詞《ことば》には押え切れない肝癪《かんしゃく》の響がある。「どうしたのだね。妙じゃないか。ジネストの奥さんに、わたしが来て待っているとそう云ったかね。ええ。」
 下女は妙な笑顔をした。「あの、奥さんがお客様にお断り申してくれとそうおっしゃいました。」
「ええ。どうも分からないな。お断り申せとはどう云うのだね。奥さんはおいでになるが、お逢いにならないと云うのかい。」
「いいえ。奥さんは拠《よんどころ》ない御用がおありなさいますので、お出掛けになりました。いずれお手紙をお上げ申しますとおっしゃいました。」こう云ってしまって、下女は笑声を洩した。
 オオビュルナンははっと思って、さっき中庭を通って町へ出た女の事を思い出した。「あれがマドレ
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