の女でも若い盛りが過ぎて一度平静になった後に、もうほどなく老が襲って来そうだと思って、今のうちにもう一度若い感じを味ってみたいと企てる、ちょいとした浮気の発動が、この女の上にもめぐって来ているのだと認めたのである。あの手紙にはこの方面の事は文章の上に少しも書いて無い。しかしそれがかえってこう云う状態の存在を証明しているように思われた。
 すべて女の手紙を読むには、行の間を読まなくてはならない。眼光紙背に徹せなくてはならない。ピエエル・オオビュルナンは得意の作の中にこう書いた事がある。「女の手紙の意味は読んで知れるものでは無い。推測しなくてはならない。たいていわざと言わずにあるところに、本意は潜んでいるものである。」
 マドレエヌの手紙の中で、一番注意してみなくてはならぬ処は二白《にはく》である。法律顧問を託する女が媚《こび》を呈するような態度で、顔がどうなったの、姿がどうなったのと云うはずが無い。
 自動車がセエヌ河に沿うて走る間オオビュルナンはこんな事を考えた。「三十三年に六年を足せば三十九年になる。マドレエヌは年増としてはまだ若い方だ。察するに今度のような突飛な事をしたのは、今に四十になると思ったからではあるまいか。夫が不実をしたのなんのと云う気の毒な一条は全然虚構であるかも知れない。そうでないにしても、夫がそんな事をしているのは、疾《と》うから知っていて、別になんとも思わなかったかも知れない。そのうち突然自分が今に四十になると云うことに気が附いて、あんな常軌を逸した決心をしたのではあるまいか。」これはちと穿鑿《せんさく》に過ぎた推論である。しかしこんなのが女にありそうな心理状態だと思うと、特別の面白みがある。
 ピエエル・オオビュルナンはわざとらしく口の内でつぶやいた。「ああ。そんな事はどうでもいいのだ。十六年前の事を思ってみると、あのマドレエヌと云う女は馬鹿に美しい女だった。それが大して変っていないとすると。」これまで言って、あとはなんとも云わなかった。心の内でもそのあとは考えなかったのである。オオビュルナンは女に逢うに、どうしようと云う計画を立てたことが無い。今の世の人情で判断すれば、この男はまだ若いと云っていい。しかしもうあまたの閲歴、しかも猛烈な閲歴を持っているから、小説らしい架空な妄想には耽らない。この男はきちんと日課に割り附けてある一日の午後を、どんな美しい女のためにでも、無条件に犠牲に供せようとは思わない。この心持は自分にもはっきり分かっている。そんなら何が今でもこの男に興味を感ぜさせるかと云うと、それは女が自分のためにのぼせてくれるのを、受身になって楽しむところに存する。エピクロス派の耽美家が初老を越すと、相手の女の情欲を芸術的に研究しようと云う心理的好奇心より外には、もうなんの要求をも持っていない。これまでのこの男の情事は皆この方面のものに過ぎなかった。それがもう十年このかたの事である。
 ピエエル・オオビュルナンはそんな風にこれまで相手にした女とまるで違ったマドレエヌに逢って、今度こそどんな心持がするか経験してみようと思っている。それが心の内で秘密な歓喜として感ぜられる。マドレエヌは本当の田舎の女である。そして読書に飽きたオオビュルナンの目には Balzac が小説に出る女主人公のように映ずるのである。
 そこへまた他の一種の感情が作用する。それはやや高尚な感情で、自分の若かった昔の記念である。あの頃の事を思ってみれば、感情生活の本源まで溯って行く道がどんなにか平坦であっただろう。その恋しい昔の活きた証人ほど慕わしいものが世にあろうか。まだ人生と恋愛とが未来であった十七歳の青年の心持に、ただの二三十分間でもいいから戻ってみたい。あのマドレエヌに逢ってみたらイソダンで感じたように楽しい疑懼《ぎく》に伴う熱烈な欲望が今一度味われはすまいか。本当にあのマドレエヌが昔のままで少しも変らずにいてくれればいい。しかし自分はどうだろうか。なに、それは別に心配しなくてもいい。もちろん髪の毛は大ぶ薄くなって、顔のそこここに皺《しわ》が出来たが、その填合《うめあわ》せにはあの時のようにはにかみはしない。それから立居振舞も気が利いていて、風采も都人士めいている。「それに第一流の大家と来ている」と、オオビュルナンは口の内で詞に出して己《おのれ》を嘲《あざけ》った。
 自動車が止まった。オオビュルナンは技手に待っていろと云って置いて、しずかに車を下りてロメエヌ町へ曲がった。小さい、寂しい横町である。少数の職業組合が旧教の牧師の下に立って単調な生活をしていた昔をそのままに見せるこう云う町は、パリイにはこの辺を除けては残っていない。指定せられた十八番地の前に立って見れば、宛然《えんぜん》たる田舎家である。この家なら、そっくりこのま
前へ 次へ
全10ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング