のである。しかしそれは錯覚であったとみえて、誰も室内へ這入って来てはいない。オオビュルナンは起ち上がって、戸の傍へ歩み寄った。薄絹が少し動いたようではあるが、何も見えない。多分風であっただろう。
オオビュルナンは口の内でつぶやいた。「これでは余り優待せられると云うものではないな。もうかれこれ二十分から待たせられている。どうしたと云うのだろう。事によったら馬鹿な下女奴《げじょめ》が、奥へ通さずにしまったのではないかしら。とにかくまあ、待っているとしよう。や、来たな。」最後の一句は廊下に足音が聞えたから言ったのである。その足音はたしかに硝子戸に近づいて来る。オオビュルナンは覚えず居ずまいを直して、蹙《しか》めた顔を元に戻した。ちょうど世話物の三幕目でいざと云う場になる前に、色男の役をする俳優が身繕《みづくろ》いをすると云う体裁である。
はてな。誰も客間には這入って来ない。廊下から外へ出る口の戸をしずかに開けて、またしずかに締めたらしい。中庭を通り抜ける人影がある。それが女の姿で、中庭から町へ出て行く。オオビュルナンはほっと息を衝《つ》いた。「そうだ。マドレエヌの所へ友達の女が来ていてそれがやっと今帰って行ったのだな。」こう思ってまた五六分間待った。そのうちそろそろ我慢がし切れなくなった。余り人を馬鹿にしているじゃないか。オオビュルナンはどこかにベルがありそうなものだと、壁を見廻した。
この時下女が客間に来た。頬っぺたが前に見た時より赤くなっていて、表情が前に見た時より馬鹿らしく見えている。そして黙って戸の際《きわ》に立っている。
客の詞《ことば》には押え切れない肝癪《かんしゃく》の響がある。「どうしたのだね。妙じゃないか。ジネストの奥さんに、わたしが来て待っているとそう云ったかね。ええ。」
下女は妙な笑顔をした。「あの、奥さんがお客様にお断り申してくれとそうおっしゃいました。」
「ええ。どうも分からないな。お断り申せとはどう云うのだね。奥さんはおいでになるが、お逢いにならないと云うのかい。」
「いいえ。奥さんは拠《よんどころ》ない御用がおありなさいますので、お出掛けになりました。いずれお手紙をお上げ申しますとおっしゃいました。」こう云ってしまって、下女は笑声を洩した。
オオビュルナンははっと思って、さっき中庭を通って町へ出た女の事を思い出した。「あれがマドレ
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