好かつたのだ。」
「でも帰れば又初から遣り直すことになつたのです。」
「併し。」
「まあ、聞いて下さい。突然わたしはぎくりとしました。曲角に黒い姿が二つ見えたのです。一人が蝙蝠傘を斜に連の人の前に差し掛けてゐます。傘を持つてゐたのは、年を取つた尼さんでした。二人は真つ直にわたしの方へ向いて来ます。わたしは木の背後《うしろ》にでも躱《かく》れてゐて、そこから飛び付かうか、木の枝にでも昇つてゐて、そこから飛び降りようかと思ひながら、其儘ぢつとしてすわつてゐました。すると例の人の顔が段々近くなつて来ます。柔い、むく毛の生えた頬や、包ましげな目が見えます。それから口が見えます。しまひには只唇ばかりが見えます。其唇は丁度アルバトロス鳥を引き寄せる燈明台のやうなものです。そのうちとうとうわたしのまん前に来ました。わたしはゆつくり立ち上がりました。そして。」
「こら」と云つて、兄は己の臂を掴んだ。併し己はそれに構はずに、昔の記念のために熱しつつ語り続けた。
「そしてわたしは大股に年を取つた尼さんの前を通り過ぎて、若い尼さんの頭を両手の間に挾みました。わたしは今もその黒い面紗《めんさ》を押さへたわたし
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