の指と、びつくりした、大きい、青い目とを見るやうです。わたしは自分の口を尼さんの口の所へ、俯向くやうにして持つて往つて、キスをしました。キスをしました。気の狂つたやうにキスをしました。尼さんはとうとうわたしに抱かれてしまひました。わたしはそれをベンチへ抱へて往つて、傍に掛けさせて、いつまでもキスをしました。兄いさん。とうとう尼さんが返報に向うからもわたしにキスをしたのです。尼さんの熱い薔薇の唇がわたしのを捜すのですね。あんなキスはわたし跡にも先にも受けたことがありません。わたしは邪魔がないと、其儘夜まで掛けてゐたのです。所が生憎。」
「誰か来たのかい。」
「いいえ。さうぢやないのですが、何遍となく同じ詞を、わたしの耳の傍で繰り返すものがあつたのです。わたしは頭を挙げて其方を見ました。見れば年を取つた方の尼さんが、丁度ソドムでのロトの妻のやうに、振り上げた手に蝙蝠傘を持つて、凝り固まつたやうに立つてゐて、しやがれた声で繰り返すのです。Mon dieu, mon dieu, que faites―vous donc, monsieur? que faites, faites, fai―aites―vous donc? わたしは又自分の抱いてゐる女を見ました。蒼い顔と瞑《つぶ》つた目とを見ました。併し妙な事にはキスをしない前程美しくはありませんでした。それから、えゝ、それでおしまひでした。わたしは逃げ出しました。」
 兄も己も大ぶ竪町を通り越してゐた。そこで黙つて引き返して並んで歩いた。兄が今口を開いたら、其口からは己を詛《のろ》ふ詞が出るだらうと、己は思つてゐた。
 兄は突然顔を挙げて、夢を見るやうな目附で海の上を見ながら、己に問うた。
「本当に向うからキスをしたのかい。」
 己は此詞に力を得て微笑《ほゝゑ》んだ。そして兄と一しよに竪町の家に往て、ラゴプス鳥を注文した。



底本:「鴎外選集 第14巻」岩波書店
   1979(昭和54)年12月19日第1刷発行
初出:「我等 一ノ一」
   1914(大正3)年1月1日
原題:Dat Fleesch.
原作者:Gustav Wied, 1858−1914
翻訳原本:G. Wied: Lustige Geschichten. Deutsch von Ida Anders. Stuttgart, Axel Juncker
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