いて、戸川と富田との間の処に据わった。
寧国寺《ねいこくじ》さんという曹洞宗《そうとうしゅう》の坊さんなのである。金田町の鉄道線路に近い処に、長い間廃寺のようになっていた寧国寺という寺がある。檀家《だんか》であった元小倉藩の士族が大方|豊津《とよつ》へ遷《かえ》ってしまったので、廃寺のようになったのであった。辻堂を大きくしたようなこの寺の本堂の壁に、新聞|反古《ほご》を張って、この坊さんが近頃住まっているのである。
主人は嬉しそうな顔をして、下女を呼んで言い附けた。
「饂飩がまだあるなら、一杯熱くして寧国寺さんに上げないか。お寒いだろうから。」
戸川は自分の手を翳していた火鉢を、寧国寺さんの前へ押し遣った。
寧国寺さんはほとんど無間断《むげんだん》に微笑を湛《たた》えている、痩《や》せた顔を主人の方に向けて、こんな話をし出した。
「実は今朝|托鉢《たくはつ》に出ますと、竪《たて》町の小さい古本屋に、大智度論《たいちどろん》の立派な本が一山積み畳ねてあるのが、目に留まったのですな。どうもこんな本が端本《はほん》になっているのは不思議だと思いながら、こちらの方へ歩いて参って、錦《にしき》町の通を旦過橋《たんかばし》の方へ行く途中で、また古本屋の店を見ると、同じ大智度論が一山ここにも積み畳ねてある。その外|法苑珠林《ほうおんじゅりん》だの何だのと、色々あるのです。大智度論も二軒のを合せると全部になりそうなのですな。」
主人は口を挟んだ。「それじゃあわざと端本にして分けて売ったのでしょう。」
「お察しの通りです。どこから出たということも大概分かっています。どうかすると調べたくなる事もある本ではあるし、端本にして置けば、反古にしてしまわれるのは極《き》まっていますから、いかにも惜しゅうございますので、東禅寺の和尚に話して買うて置いて貰うことにして来ました。跡に残っている本のうちには、何か御覧になるようなものもあろうかと思いましたので一寸《ちょっと》お知らせに参りました。」
「それは難有《ありがと》う。明日《あした》役所から帰る時にでも廻って見ましょう。さあ。饂飩が冷えます。」
寧国寺さんは饂飩を食べるのである。暫くすると、竹が「お代りは」と云って出て来た。そしてお代りを持って来るのを待って、主人は竹を呼び留めた。
「少しこの辺《へん》を片附けて、お茶を入れて、馬関の羊羹《ようかん》のあったのを切って来い。おい。富田君の処の徳利は片附けてはいけない。」
「いや。これを持って行かれては大変。」富田は鰕《えび》のようになった手で徳利を押えた。そして主人にこう云った。
「一体御主人の博聞強記は好《い》いが、科学を遣っているくせに仏法の本なんかを読むのは分からないて。仏法の本は坊様が読めば好いではないか。」
寧国寺さんは饂飩をゆっくり食べながら、顔には相変らず微笑を湛えている。
主人がこう云った。「君がそう思うのも無理はない。医書なんぞは、医者でないものが読むと、役には立たないで害になることもある。しかし仏法の本は違うよ。」
「どうか知らん。独身でいるのさえ変なのに、お負《まけ》に三宝に帰依《きえ》していると来るから、溜まらない。」
「また独身攻撃を遣り出すね。僕なんぞの考では、そう云う君だってやっぱり三宝に帰依しているよ。」
「こう見えても、僕なんかは三宝とは何と何だか知らないのだ。」
「知らないでも帰依している。」
「そんな堅白異同《けんぱくいどう》の弁を試みたっていけない。」
主人は笑談《じょうだん》のような、真面目《まじめ》のような、不得要領な顔をしてこんな事を言った。
「そうでないよ。君は科学科学と云っているだろう。あれも法なのだ。君達の仲間で崇拝している大先生があるだろう。Authoritaeten《アウトリテエテン》 だね。あれは皆仏なのだ。そして君達は皆僧なのだ。それからどうかすると先生を退治しようとするねえ。Authoritaeten《アウトリテエテン》−Stuermerei《スチュルメライ》 というのだね。あれは仏を呵《か》し祖を罵《ののし》るのだね。」
寧国寺さんは羊羹を食べて茶を喫《の》みながら、相変わらず微笑している。
五
富田は目を据えて主人を見た。
「またお講釈だ。ちょいと話をしている間にでも、おや、また教えられたなと思う。あれが苦痛だね。」一寸《ちょっと》顔を蹙《しか》めて話し続けた。
「なるほど酒は御馳走《ごちそう》になる。しかしお肴《さかな》が饂飩と来ては閉口する。お負にお講釈まで聞せられては溜まらない。」
主人はにやにや笑っている。「一体仏法なぞを攻撃しはじめたのは誰《たれ》だろう。」
「いや。説法さえ廃《よ》して貰われれば、僕も謗法《ぼうほう》はしない。だがね、君、独身生活を攻撃することは廃さないよ。箕村《みのむら》の処なんぞへ行くと、お肴が違う。お梅さんが床の間の前に据わって、富田に馳走をせいと儼然《げんぜん》として御託宣があるのだ。そうすると山海の美味が前に並ぶのだ。」
「分からないね。箕村というのは誰だい。それにお梅さんという人はどうしてそんなに息張《いば》っているのだい。」
「そりゃ息張っていますとも。床の間の前へ行って据わると、それ、御託宣だと云うので、箕村は遥か下がって平伏するのだ。」
「箕村というのは誰だい。」
「箕村ですか。あの長浜へ出る処に小児科病院を開いている男です。前の細君が病気で亡くなって忌中でいると、ある日大きな鯛《たい》を持って来て置いて行ったものがあったそうだ。箕村がひどく驚いて、近所を聞き廻ったり何かして騒ぐと、その時はまだ女中でいたお梅さんが平気で、これはお稲荷《いなり》様《さま》の下さった鯛だと云って、直ぐに料理をして、否唯《いやおう》なしに箕村に食わせたそうだ。それが不思議の始で、おりおり稲荷の託宣がある。梅と婚礼をせいと云う託宣なんぞも、やっぱりお梅さんが言い渡して置いて、箕村が婚礼の支度をすると、お梅さんは驚いた顔をして、お娵《よめ》さんはどちらからお出《いで》なさいますと云ったそうだ。僕は神慮に称《かな》っていると見えて、富田に馳走をせいと云う託宣があるのだ。」
「怪しい女だね」と戸川が嘴《くちばし》を容《い》れた。
「なに。御馳走になるから云うのではないが、なかなか好《い》い細君だよ。入院している子供は皆|懐《なつ》いている。好く世話をして遣《や》るそうだ。ただおりおり御託宣があるのだ。」
寧国寺さんは、主人と顔を見合せて、不断の微笑を浮べて聞いていたが、「お休なさい」と云って、ついと起った。見送りに立つ暇《いとま》もない。
この坊さんはいつでも飄然《ひょうぜん》として来て飄然として去るのである。
風の音がひゅうと云う。竹が薬缶《やかん》を持って、急須《きゅうす》に湯を差しに来て、「上はすっかり晴れました」と云った。
「もうお互に帰ろうじゃないか」と戸川が云った。
富田は幅の広い顔に幅の広い笑を見せた。「ところが、まだなかなか帰られないよ。独身生活を berufsmaessig《ベルウフスメエシヒ》 に遣っている先生の退却した迹《あと》で、最後の突撃を加えなけりゃあならないからな。箕村だってそうだ。僕は何故《なにゆえ》にお稲荷さんが、特に女中をしていたお梅さんを抜擢《ばってき》したかということまで、神慮に立ち入って究めることは敢《あえ》てしない。しかし兎に角第二の細君が直ぐに出来たのは、箕村のために幸福であった。箕村は一日も不自由をしない。箕村のお客たる僕なんぞも不自由をしない。主人が幸福なら、客も幸福だ。」
主人の無頓着《むとんじゃく》らしい顔には、富田がいくら管《くだ》を巻いてもやはり微笑の影が消えない。
戸川は主人に目食《めく》わせをした。「いや。大変遅くなった。もうお暇《いとま》をします。」
そして起ちそうにして起たずに、頻《しき》りに富田を促すのである。「さあ。君も行こうじゃないか。もう分かっているよ。分かっているよ。」
戸川はとうとう引き摩《ず》るようにして富田を連れ出した。
富田は少しよろけながら玄関へ出て、大声にどなっている。「おい。お竹さん。もう一本熱いのを貰うはずだが、こん度の晩まで預けて置くよ。」
主人は送りに出て、戸川に囁《ささや》いた。「車を呼びに遣ろうか。」
「なに。どうせ同じ道ですから、僕が門まで一しょに行きます。さようなら。」
六
二人の客の帰った迹《あと》は急にひっそりした。旭町の太鼓はいつか止んでいて、今まで聞えなかった海の鳴る音がする。
竹が出て来て、酒や茶の道具を片附けている。主人の大野は、見るともなしにそれを見ていたが、ふいと竹を女として視ようとした。
背の低い、髪の薄い、左右の目の大さの少し違っている女である。初め奉公に来た時は痩せて蒼い顔をしていて、しおらしいような処があった。それがこの家に来てから段々肥えて、頬《ほ》っぺたが膨らんで来た。女振はよほど下がったのである。
宿元は小倉に近い処にあるが、兄が博多《はかた》で小料理屋をしている。飯焚《めしたき》なんぞをするより、酌でもしてくれれば、嫁入支度位は直ぐ出来るようにして遣ると、兄が勧めたので、暫く博多に行っていたが、そこへ来る客というのが、皆マドロスばかりで、ひどく乱暴なので、恐れて逃げて帰ったのだそうだ。裏表のない、主人のためを思って働く、珍らしい女中である。しかし女として視ることはむずかしい。これまで一度も女だと思ったことがなかったが、今女だと思おうとしても、それがほとんど不可能である。異性のものだという感じは所詮《しょせん》起らなかった。
道具を片附けてしまって起って行くのを、主人は見送って、覚えず微笑した。そして自分の冷澹《れいたん》なのを、やや訝《いぶか》るような心持になった。
この心持が妙に反抗的に、白分のどこかに異性に対する感じが潜んでいはしないかと捜すような心持を呼び起した。
大野の想像には、小倉で戦死者のために法会をした時の事が浮ぶ。本願寺の御連枝《ごれんし》が来られたので、式場の天幕の周囲《まわり》には、老若男女がぎしぎしと詰め掛けていた。大野が来賓席の椅子《いす》に掛けていると、段々見物人が押して来て、大野の膝《ひざ》の間の処へ、島田に結《い》った百姓の娘がしゃがんだ。お白いと髪の油との※[#「均−土」、第3水準1−14−75]《におい》がする。途中まで聞いていた誰やらの演説が、ただ雑音のように耳に聞えて、この島田に掛けた緋鹿子《ひがのこ》を見る視官と、この髪や肌から発散する※[#「均−土」、第3水準1−14−75]を嗅ぐ嗅覚《きゅうかく》とに、暫くの間自分の心が全く奪われていたのである。この一|刹那《せつな》には大野も慥《たし》かに官能の奴隷であった。大野はその時の事を思い出して、また覚えず微笑した。
大野は今年四十になる。一度持った妻に別れたのは、久しい前の事である。独身で小倉に来ているのを、東京にいるお祖母《ば》あさんがひどく案じて、手紙をよこす度に娵《よめ》の詮議をしている。今宵《こよい》もそのお祖母あさんの手紙の来たのを、客があったので、封を切らずに机の上に載せて置いた。
大野は昏《くら》くなったランプの心を捩《ね》じ上げて、その手紙の封を開いた。行儀の好《い》いお家流の細字を見れば、あの角縁《つのぶち》の目金を掛けたお祖母あさんの顔を見るようである。
歳暮もおひおひ近く相成《あいなり》候《そうら》へば、御上京なされ候日の、指折る程に相成候を楽み居り候。前便に申上候井上の嬢さんに引き合せくれんと、谷田の奥さんが申され候ゆゑ、今日上野へまゐり、只今《ただいま》帰りてこの手紙をしたため候。私と谷田の奥さんとにて先に参りをり候処へ、富子さん母上と御一しよに来られ、車を降りて立ち居られ候高島田の姿を、初て見候時には、実に驚き申候。世の中にはこの様なる美しき人もあるものかと、不思議に思はれ候程に候。この人を見せたらば、いかに女
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