独身
森鴎外

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)掠《かす》めて

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今晩|何処《どこ》

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(例)※[#「均−土」、第3水準1−14−75]《におい》が
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       壱

 小倉の冬は冬という程の事はない。西北の海から長門の一角を掠《かす》めて、寒い風が吹いて来て、蜜柑《みかん》の木の枯葉を庭の砂の上に吹き落して、からからと音をさせて、庭のあちこちへ吹き遣《や》って、暫《しばら》くおもちゃにしていて、とうとう縁の下に吹き込んでしまう。そういう日が暮れると、どこの家でも宵のうちから戸を締めてしまう。
 外はいつか雪になる。おりおり足を刻んで駈けて通る伝便《でんびん》の鈴の音がする。
 伝便と云っても余所《よそ》のものには分かるまい。これは東京に輸入せられないうちに、小倉へ西洋から輸入せられている二つの風俗の一つである。常磐橋《ときわばし》の袂《たもと》に円い柱が立っている。これに広告を貼《は》り附けるのである。赤や青や黄な紙に、大きい文字だの、あらい筆使いの画だのを書いて、新らしく開《あ》けた店の広告、それから芝居見せものなどの興行の広告をするのである。勿論柱はただ一本だけであって、これに張るのと、大門町の石垣に張る位より外《ほか》に、広告の必要はない土地なのだから、印刷したものより書いたものの方が多い。画だっても、巴里《パリ》の町で見る affiche《アフィッシュ》 のように気の利いたのはない。しかし兎《と》に角《かく》広告柱があるだけはえらい。これが一つ。
 今一つが伝便なのである。Heinrich《ハインリヒ》 von《フォン》 Stephan《ステファン》 が警察国に生れて、巧に郵便の網を天下に布《し》いてから、手紙の往復に不便はないはずではあるが、それは日を以て算し月を以て算する用弁の事である。一日の間の時を以て算する用弁を達するには、郵便は間に合わない。Rendez《ランデ》−vous《ヴウ》 をしたって、明日《あす》何処《どこ》で逢《あ》おうなら、郵便で用が足る。しかし性急な変で、今晩|何処《どこ》で逢《あ》おうとなっては、郵便は駄目である。そんな時に電報を打つ人もあるかも知れない。これは少し牛刀鶏を割《さ》く嫌《きらい》がある。その上|厳《いか》めしい配達の為方《しかた》が殺風景である。そういう時には走使《はしりつかい》が欲しいに違ない。会杜の徽章《きしょう》の附いた帽を被《かぶ》って、辻々《つじつじ》に立っていて、手紙を市内へ届けることでも、途中で買って邪魔になるものを自宅へ持って帰らせる事でも、何でも受け合うのが伝便である。手紙や品物と引換に、会社の印の据《す》わっている紙切をくれる。存外間違はないのである。小倉で伝便と云っているのが、この走使である。
 伝便の講釈がつい長くなった。小倉の雪の夜に、戸の外の静かな時、その伝便の鈴の音がちりん、ちりん、ちりん、ちりんと急調に聞えるのである。
 それから優しい女の声で「かりかあかりか、どっこいさのさ」と、節を附けて呼んで通るのが聞える。植物採集に持って行くような、ブリキの入物に花櫚糖《かりんとう》を入れて肩に掛けて、小提灯《こぢょうちん》を持って売って歩くのである。
 伝便や花櫚糖売は、いつの時侯にも来るのであるが、夏は辻占《つじうら》売なんぞの方が耳に附いて、伝便の鈴の音、花櫚糖売の女の声は気に留まらないのである。
 こんな晩には置炬燵《おきごたつ》をする人もあろう。しかし実はそれ程寒くはない。
 翌朝|手水鉢《ちょうずばち》に氷が張っている。この氷が二日より長く続いて張ることは先ず少い。遅くも三日目には風が変る。雪も氷も融《と》けてしまうのである。

       弐 

 小倉の雪の夜の事であった。
 新魚町《しんうおのまち》の大野|豊《ゆたか》の家に二人の客が落ち合った。一人は裁判所長の戸川という胡麻塩頭《ごましおあたま》の男である。一人は富田という市病院長で、東京大学を卒業してから、この土地へ来て洋行の費用を貯《たくわ》えているのである。費用も大概出来たので、近いうちに北川という若い医学士に跡を譲って、出発すると云っている。富田院長も四十は越しているが、まだ五分刈頭に白い筋も交《まじ》らない。酒|好《ずき》だということが一寸《ちょっと》見ても知れる、太った赭顔《あからがお》の男である。
 極《ごく》澹泊《たんぱく》な独身生活をしている主人は、下女の竹に饂飩《うどん》の玉を買って来させて、台所で煮させて、二人に酒を出した。この家では茶を煮るときは、名物の鶴《つる》の子《こ》より旨《うま》いというので、焼芋を買わせる。常磐橋の辻から、京町へ曲がる角に釜《かま》を据えて、手拭《てぬぐい》を被った爺《じ》いさんが、「ほっこり、ほっこり、焼立ほっこり」と呼んで売っているのである。酒は自分では飲まないが、心易《こころやす》い友達に飲ませるときは、好《すき》な饂飩を買わせる。これも焼芋の釜の据えてある角から二三軒目で、色の褪《さ》めた紺暖簾《こんのれん》に、文六と染め抜いてある家へ買いに遣《や》るのである。
 主人は饂飩だけ相伴して、無頓着《むとんじゃく》らしい顔に笑《えみ》を湛《たた》えながら、二人の酒を飲むのを見ている。話はしめやかである。ただ富田の笑う声がおりおり全体の調子を破って高くなる。この辺は旭《あさひ》町の遊廓が近いので、三味《さみ》や太鼓の音もするが、よほど鈍く微かになって聞えるから、うるさくはない。
 竹が台所から出て来て、饂飩の代りを勧めると、富田が手を揮《ふ》って云った。
「もういけない。饂飩はもう御免だ。この家にも奥さんがいれば、僕は黙って饂飩で酒なんぞは飲まないのだが。」
 これが口火になって、有妻無妻という議論が燃え上がった。この部屋で此等《これら》の人の口からこの議論が出たのは、決して今夜が初めではない。
 主人が帝国採炭会社の理事長になって小倉に来てから、もう二年立った。その内大野の独身生活は小倉で名高いものになっていて、随って度々問題に上る。
 主人は全く女というものなしに暮らしているのだろうか。富田もこの問題のために頭を悩ました一人である。そこでこう云った。
「どうも小倉には御主人のお目に留まったものがなさそうだ。多分|馬関《ばかん》だろうと思って、僕は随分熱心に聞いて廻ったのだが、結果が陰性だった。」
「随分御苦労なわけだね」と、遠慮深い戸川は主人の顔を見て云った。
 主人はただにやりにやり笑っている。
 富田は少し酔っているので、論鋒《ろんぽう》がいよいよ主人に向いて来る。「一体ここの御主人のような生活をしていられては、周囲《まわり》の女のために危険で行けない。」
「なぜだい、君。」
「いつどの女とどう云う事が始まるかも知れないんだからね。」
「まるで僕が Don《ドン》 Juan《ホァン》 ででもあるようだ。」
 戸川は主人のために気の毒に思って、半ば無意識に話を外へ転じようとした。そして持前のしんねりむっつりした様子で、妙な話をし出した。

       参

 戸川は両手を火鉢に翳《かざ》して、背中を円くして話すのである。
「そりゃあ独身生活というものは、大抵の人間には無難にし遂げにくいには違ない。僕の同期生に宮沢という男がいた。その男の卒業して直ぐの任地が新発田《しばた》だったのだ。御承知のような土地柄だろう。裁判所の近処《きんじょ》に、小さい借屋をして、下女を一人使っていた。同僚が妻を持てと勧めても、どうしても持たない。なぜだろう、なぜだろうと云ううちに、いつかあれは吝嗇《りんしょく》なのだということに極《き》まってしまったそうだ。僕は書生の時から知っていたが、吝嗇ではなかった。意地強く金を溜《た》めようなどという風の男ではない。万事控目で踏み切ったことが出来ない。そこで判事試補の月給では妻子は養われないと、一図《いちず》に思っていたのだろう。土地が土地なので、丁度今夜のような雪の夜が幾日も幾日も続く。宮沢はひとり部屋に閉じ籠《こも》って本を読んでいる。下女は壁|一重《ひとえ》隔てた隣の部屋で縫物をしている。宮沢が欠《あくび》をする。下女が欠を噬《か》み殺す。そういう風で大分の間過ぎたのだそうだ。そのうちある晩|風雪《ふぶき》になって、雨戸の外では風の音がひゅうひゅうとして、庭に植えてある竹がおりおり箒《ほうき》で掃くように戸を摩《す》る。十時頃に下女が茶を入れて持って来て、どうもひどい晩でございますねというような事を言って、暫くもじもじしていた。宮沢は自分が寂しくてたまらないので、下女もさぞ寂しかろうと思い遣《や》って、どうだね、針《はり》為事《しごと》をこっちへ持って来ては、己《おれ》は構わないからと云ったそうだ。そうすると下女が喜んで縫物を持って来て、部屋の隅の方で小さくなって為事をし始めた。それからは下女が、もうお客様もございますまいねと云って、おりおり縫物を持って、宮沢の部屋へ来るようになったのだ。」
 富田は笑い出した。「戸川君。君は小説家だね。なかなか旨《うま》い。」
 戸川も笑って頭を掻いた。「いや。実は宮沢が後悔して、僕にあんまり精《くわ》しく話したもんだから、僕の話もつい精しくなったのだ。跡は端折《はしょ》って話すよ。しかしも一つ具体的に話したい事がある。それはこうなのだ。下女がある晩、お休なさいと云って、隣の間へ引き下がってから、宮沢が寐られないでいると、壁を隔てて下女が溜息をしては寝返りをするのが聞える。暫く聞いていると、その溜息が段々大きくなって、苦痛のために呻吟《しんぎん》するというような風になったそうだ。そこで宮沢がつい、どうかしたのかいと云った。これだけ話してしまえば跡は本当に端折るよ。」
 富田は仰山な声をした。「おい。待ってくれ給え。ついでに跡も端折らないで話し給え。なかなか面白いから。」声を一倍大きくした。「おい。お竹さん。好く聞いて置くが好《い》いぜ。」
 始終にやにや笑っていた主人の大野が顔を蹙《しか》めた。
 戸川は話し続けた。「どうも富田君は交《まぜ》っ返すから困る。兎《と》に角《かく》それから下女が下女でなくなった。宮沢は直ぐに後悔した。職務が職務なのだから、発覚しては一大事だと思ったということは、僕にも察せられる。ところが、下女は今まで包《つつ》ましくしていたのが、次第にお化粧をする、派手な着物を着る。なんとなく人の目に立つ。宮沢は気が気でない。とうとう下女の親|許《もと》へ出掛けて行って、いずれ妻にするからと云って、一旦《いったん》引き取らせて手当を遣っていた。そのうちにどうかしようと思ったが、親許が真面目《まじめ》なので、どうすることも出来ない。宮沢は随分窮してはいたのだが、ひと算段をしてでも金で手を切ろうとした。しかし親許では極まった手当の外《ほか》のものはどうしても取らない。それが心《しん》から欲しくないのだから、手が附けられない。とうとうその下女を妻にして、今でもそのままになっている。今は東京で立派にしているのだが、なんにしろ教育の無い女の事だから、宮沢は何かに附けて困っているよ。」
 富田は意地きたなげに、酒をちびちび飲みながら冷かした。「もうおしまいか。竜頭蛇尾だね。そんな話なら、誉めなけりゃあ好かった。」

       四

 この時戸口で、足踏をして足駄の歯に附いた雪を落すような音がする。主人の飼っている Jean《ジャン》 という大犬が吠えそうにして廃《よ》して、鼻をくんくんと鳴らす。竹が障子を開けて何か言う声がする。
 間もなく香染《こうぞめ》の衣を着た坊さんが、鬚《ひげ》の二分程延びた顔をして這入《はい》って来た。皆の顔を見て会釈して、「遅くなりまして甚《はなは》だ」と云いながら、畳んだ坐具を右の脇《わき》に置
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