當流比較言語學
森林太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)何故《なぜ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#二の字点、1−2−22]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)よく/\

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔sittliche Entru:stung〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 或る國民には或る詞が闕けてゐる。
 何故《なぜ》闕けてゐるかと思つて、よく/\考へて見ると、それは或る感情が闕けてゐるからである。
 手近い處で言つて見ると、獨逸語に Streber といふ詞がある。動詞の streben は素と體《からだ》で無理な運動をするやうな心持の語であつたさうだ。それからもがくやうな心持の語になつた。今では總て抗抵を排して前進する義になつてゐる。努力するのである。勉強するのである。隨て Streber は努力家である。勉強家である。抗抵を排して前進する。努力する。勉強する。こんな結構な事は無い。努力せよといふ漢語も、勉強し給へといふ俗語も、學問や何か、總て善い事を人に勸めるときに用ゐられるのである。勉強家といふ詞は、學校では生徒を褒めるとき、お役所では官吏を褒めるときに用ゐられるのである。
 然るに獨逸語の Streber には嘲る意を帶びてゐる。生徒は學科に骨を折つてゐれば、ひとりでに一級の上位に居るやうになる。試驗に高點を贏ち得る。早く卒業する。併し一級の上位にゐよう、試驗に高點を貰はう、早く卒業しようと心掛ける、其心掛が主になることがある。さういふ生徒は教師の心を射るやうになる。教師に迎合するやうになる。陞進をしたがる官吏も同じ事である。其外學者としては頻に論文を書く。藝術家としては頻りに製作を出す。えらいのもえらくないのもある。Talent の有るのも無いのもある。學問界、藝術界に地位を得ようと思つて骨を折るのである。獨逸人はこんな人物を Streber といふのである。
 Moritz Heyne の字書を開けて見ると、Bismarck の手紙が引いてある。某は中尉で白髮になつてゐるのだから、Streber であるのも是非が無いといふやうな文句である。此例も明白に嘲る意を帶びてゐる。
 僕は書生をしてゐる間に、多くの Streber を仲間に持つてゐたことがある。自分が教師になつてからも、預かつてゐる生徒の中に Streber のゐたのを知つてゐる。官立學校の特待生で幅を利かしてゐる人の中には、澤山さういふのがある。
 官吏になつてからも、僕は隨分 Streber のゐるのを見受けた。上官の御覺めでたい人物にはそれが多い。祕書官的人物の中に澤山さういふのがゐる。自分が上官になつて見ると、部下に Streber の多いのに驚く。
 Streber はなまけものやいくぢなしよりはえらい。場合によつては一廉の用に立つ。併し信任は出來ない。學問藝術で言へば、こんな人物は學問藝術の爲めに學問藝術をするのでない。學問藝術を手段にしてゐる。勤務で言へば、勤務の爲めに勤務をするのでない。勤務を方便にしてゐる。いつ何どき魚を得て筌を忘れてしまふやら知れない。
 日本語に Streber に相當する詞が無い。それは日本人が Streber を卑むといふ思想を有してゐないからである。
 最一つ同じやうな事を言つてみよう。
 獨逸人は 〔sittliche Entru:stung〕 といふことを言ふ。〔Entru:sten〕 といふ動詞は素と甲を解く、衣を卸すといふやうな意味から轉じて、體裁も何も構はなくなる程おこることになつてゐる。腹を立つことになつてゐる。Sittlich は勿論道義的、風俗的である。〔Sittliche Entru:stung〕 といふと、或る事が不道徳である、背俗であると云つて立腹するのである。道徳的憤怒と譯しても好からう。約《つづ》めて言へば義憤であらう。
 然るに日本語では勉強家といふのに何の貶《おと》しめる意味もないやうに、義憤は當然の事であつて、少しも嘲る意味を帶びてはゐない。獨逸語で 〔sittliche Entru:stung〕 といふと、頗る片腹痛い。
 此詞は Heyne の字書の 〔Entru:stung〕 の條を見ても、Streber といふ詞のやうに、明白に嘲を帶びてゐるといふ説明を加へては無い。併し引例には矢張 Bismarck の演説が出てゐる。それは論敵が
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