たが読む気にもならない。葉巻を出して尻尾を咬み切つて、頭の方を火鉢の佐倉に押附《おつゝ》けて燃やす。周囲がひつそりとする。堀ばたの方の往来に足駄の音がする。丈の高い massif な障子の、すわつて肱の届くあたりに、開閉の出来るやうに、小さい戸が二枚づゝ嵌めてある。それを開けて見たが、横町へでも曲つたと見えて、人は見えない。総ての物が灰色になつて、海軍の参考品陳列館のけば/\しい新築までが、その灰色の一刷毛をなすられてゐる。兵学校の方から空車が一つ出て来て、ゆる/\と西の方へ行つた。戸を締める。電灯が附く。僕は烟草をふかしながら座敷を見て、かう思つた。広い、あかるい、綺麗な間で、なんにも目の邪魔になるものが無い。嫌な額なんぞも無い。避くべからざる遺物として床の間はあつても、掛物も花も目立たぬ程にしてある。胡坐をかいて旨い物を食つて、芸者のする事を見てゐるには、最も適当な場所だ。物質的時代の日本建築はこれだと云つても好からう、といふやうな事を思つた。此時僕のすわつてゐる処と diagonal になつてゐる、西北の隅の襖がすうと開いて、一間にはいつて来るものがある。小さい萎びたお婆あさんの
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