ました時、経書を進講したといふ事は御牧基賢さんの話にも見えて居るが、戸田忠至履歴といふものに次の如き記事がある。「皇后陛下御|入輿《じゆよ》の儀に付ては、維新前年より二条殿、中山殿等|特《こと》の外《ほか》心配致され、両卿より忠至に心懸御依頼に付奔走の折柄、兼て山陵の事に付懇意たりし若江修理大夫娘薫儀、一条殿姫君御姉妹へ和歌其外の御教授申上居事を心付き、同人へ皇后宮の御事相談に及び候処、一条殿御次女の方は特別の御方に渡らせられ候由薫申聞候に付、右の段二条、中山両卿へ内申に及び候処忠至参殿の上|篤《とく》と御様子見上げ参るべき様にとの御内《おんうち》沙汰《ざた》を蒙《かうむ》り、右薫と申談じ、同人同道一条殿へ参殿の上御姉妹へ拝謁、御次女の御方御様子復命に及びたり。此場合に二条殿には御嫌疑の為め御役御免に相成、御婚姻御用係を命ぜらる、万事御用向担当|滞《とゞこほ》り無く御婚儀|相済《あひすま》せられたり云々。」此によつて見れば、昭憲皇太后の御入内《ごじゆだい》には、薫子の口入が与《あづか》つて力があつたらしく見える。慶応三年六月昭憲皇太后の入内治定《じゆだいぢぢやう》の事が発表せられ、次《
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