ずしもさうではなかつたであらう。二人は京都に入つてから、一時|所謂《いはゆる》御親兵問題にたづさはつて奔走してゐた。堂上家の某が家を脱して、浪人等を募集し、皇室を守護せむことを謀《はか》つた。その浪人を以て員《かず》に充《あ》てむと欲したのは、諸藩の士には各其主のために謀る虞《おそれ》があると慮《おもんばか》つたが故である。わたくしは此《こゝ》に堂上家の名を書せずに置く。しかし他日維新史料が公にせられたなら、此問題は復《また》秘することを須《もち》ゐぬものとなるかも知れない。
 浪人には十津川産の士が多かつた。其他は諸国より出てゐた。知名の士にして親兵の籍に入つたものには、先づ中瑞雲斎《なかずゐうんさい》がある。
 中氏は昔|瓜上《うりかみ》と称し、河内《かはち》の名族であつた。承応二年|和泉国《いづみのくに》熊取村五門に徙《うつ》つて、世郷士《よゝがうし》を以て聞えてゐた。此中氏の分家に江戸本所住の三千六百石の旗本|根来《ねごろ》氏があつた。瑞雲斎は根来氏の三男に生れて宗家《そうけ》を襲《つ》ぎ、三子を生んだ。伯は克己、仲は鼎、季は建である。別に養子薫がある。瑞雲斎は早く家を克己に譲
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