余り饒舌《しやべ》らなかつたので、此会見は殆《ほとん》ど睨合《にらみあひ》を以て終つたらしい。しかしそれから後三十年の今に至るまで、津下君は私に通信することを怠らない。私が不精《ぶしやう》で返事をせぬのを、君は意に介せない。津下君は私に面会してから、間もなく大学を去つて、所々に流寓《りうぐう》した。其手紙は北海道から来たこともある。朝鮮から来たこともある。兎に角私は始終君を視野の外に失はずにゐた。
 大正二年十月十三日に、津下君は突然私の家を尋ねて、父四郎左衛門の事を話した。聞書は話の殆《ほとんど》其|儘《まゝ》である。君は私に書き直させようとしたが、私は君の肺腑《はいふ》から流れ出た語の権威を尊重して、殆其儘これを公にする。只物語の時と所とに就いて、杉孫七郎、青木梅三郎、中岡|黙《もく》、徳富猪一郎、志水小一郎、山辺丈夫《やまのべたけを》の諸君に質《たゞ》して、二三の補正を加へただけである。津下君は久しく見ぬ間に、体格の巌畳《がんでふ》な、顔色の晴々した人になつてゐて、昔の憂愁の影はもう痕《あと》だになかつた。私は「書後」の筆を投ずるに臨《のぞ》んで敬《つゝし》んで君の健康を祝する。
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