ホせるためであつた。此洋行者は皆横井が兄の子で、後に兄を伊勢太郎《いせたらう》と曰《い》ひ、弟を沼川三郎《ぬまがはさぶらう》と曰つた。横井は初め兄の家を継いだものなので、其家を左平太の伊勢太郎に譲つた。
智者は尊王家の中にも、佐幕家の中にもあつた。しかし尊王家の智者は其智慧の光を晦《くら》ますことを努めた。晦ますのが、多数を制するには有利であつたからである。開国の必要と云ふことが、群集心理の上に滲徹《しんてつ》しなかつたのは、智慧の秘密が善《よ》く保たれたのである。此|間《かん》の消息を一の drame の如くに、観照的に錬稠《れんちう》して見せたのは、梧陰存稿《ごいんそんかう》の中に、井上毅《ゐのうへこはし》の書き残した岩倉具視《いはくらともみ》と玉松操《たままつみさを》との物語である。これは教科書にさへ抜き出されてゐるのだから、今更ここに繰り返す必要はあるまい。そんなら其秘密はどうして保たれたか。岩倉村|幽居《いうきよ》の「裏のかくれ戸」は、どうして人の耳目に触れずにゐたか。それは多数が愚《おろか》だからである。
私は残念ながら父が愚であつたことを承認しなくてはならない。父は愚であつた。しかし私は父を弁護するために、二箇条の事実を提出したい。一つは父が青年であつたと云ふこと、今一つは父の身分が低かつたと云ふことである。
父が生れた時、智者横井は四十歳であつた。三十一歳で江戸に遊学して三十二歳で熊本に帰つた。当時の江戸帰《えどがへり》は今の洋行帰と同じである。父が横井を刺した時、横井は六十一歳で、参与と云ふ顕要の地位にをつた。父は二十二歳の浮浪の青年であつた。
智者横井は知行二百石足らずの家とは云ひながら、兎《と》に角《かく》細川家の奉行職《ぶぎやうしよく》の子に生れたのに、父は岡山在の里正《りせい》の子に生れた。伊木若狭《いぎわかさ》が備中越前|鎮撫総督《ちんぶそうとく》になつた時、父は其勇戦隊の卒伍《そつご》に加はらうとするにも、幾多の抗抵に出逢つたのである。
人の智慧は年齢と共に発展する。父は生れながらの智者ではなかつたにしても、其の僅《わづか》に持つてゐた智慧だに未だ発展するに遑《いとま》あらずして已《や》んだのかも知れない。又人の智慧は遭遇によつて補足せられる。父は縦《よ》しや愚であつたにしても、若し智者に親近することが出来たなら、自ら発明する所があつたのかも知れない。父は縦《よ》しや預言者たる素質を有してゐなかつたにしても、遂《つひ》に 〔consacre's〕 の群に加はることが出来ずに時勢の秘密を覗《うかゞ》ひ得なかつたのは、単に身分が低かつたためではあるまいか。人は「あが仏尊し」と云ふかも知れぬが、私はかう云ふ思議に渉《わた》ることを禁じ得ない。
私の家は代々|備前《びぜん》国|上道《じやうたう》郡|浮田《うきた》村の里正を勤めてゐた。浮田村は古く沼《ぬま》村と云つた所で、宇喜多直家《うきたなほいへ》の城址《じやうし》がある。其|城壕《しろぼり》のまだ残つてゐる土地に、津下氏は住んでゐた。岡山からは東へ三里ばかりで、何一つ人の目を惹《ひ》くものもない田舎《ゐなか》である。
私の祖父を里正|津下市郎左衛門《つげいちらうざゑもん》と云つた。旧家に善くある習《ならひ》で、祖父は分家で同姓の家の娘を娶《めと》つた。祖母の名は千代《ちよ》であつた。千代は備前侯池田家に縁故のあつた人で、駕籠《かご》で岡山の御殿に乗り附ける特権を有してゐたさうである。恐らくは乳母《うば》ではなかつたかと、私は想像する。此夫婦の間に私の父は生れた。
父は嘉永二年に生れた。幼名は鹿太《しかた》であつた。これも旧家に善くある習で、鹿太は両親の望に任せて小さい時に婚礼をした。塩見氏《しほみうぢ》の丈《たけ》と云ふ娘と盃をしたのである。多分嘉永四年で、鹿太は四歳、丈は一つ上の五歳であつたかと思ふ。
鹿太は物騒がしい世の中で、「黒船」の噂《うはさ》の間に成長した。市郎左衛門の所へ来る客の会話を聞けば、其詞《そのことば》の中に何某《なにがし》は「正義」の人、何某は「因循《いんじゆん》」の人と云ふことが必ず出る。正義とは尊王攘夷の事で、因循とは佐幕開国の事である。開国は寧《むし》ろ大胆な、進取的な策であるべき筈《はず》なのに、それが因循と云はれたのは、外夷《ぐわいい》の脅迫を懾《おそ》れて、これに屈従するのだと云ふ意味から、さう云はれたのである。其背後には支那の歴史に夷狄《いてき》に対して和親を議するのは奸臣《かんしん》だと云ふことが書いてあるのが、心理上に 〔re'miniscence〕 として作用した。現に開国を説く人を憎む情の背後には、秦檜《しんくわい》のやうな歴史上の人物を憎む情が潜《ひそ》んでゐたのである。鹿太は早く大きくなり
前へ
次へ
全15ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング