ヘか》り、当路の大官に愬《うつた》へた。それは私が学問を廃することになつた後の事である。
 明治十九年から二十年に掛けて、津下四郎左衛門に贈位する可否と云ふことは、一時其筋の問題になつてゐたさうである。しかし結局、特赦を蒙《かうむ》らずして刑死したものに、贈位を奏請することは出来ぬと云ふことになつた。私は落胆して、再び自分の生活が無意味になつたやうに思つた。尤《もつと》も此時の苦悶は、昔復讎の対象物を失つた時に比べて、余程軽く又短かつた。私が老成人になつてゐたためかも知れぬが或は私の神経が鈍くなつたためだとも思へば思はれる。
 私はもうあきらめた。譲歩に譲歩を重ねて、次第に小さくなつた私の望は、今では只此話を誰かに書いて貰つて、後世に残したいと云ふ位のものである。
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 聞書《きゝがき》はここに終る。文中に「私」と云つてあるのは、津下四郎左衛門正義の子で、名を鹿太と云つた人である。それだけの事は既に文中に見えてゐる。それのみでは無い。読者は、鹿太がどんな性質の人で、どんな境遇にゐて、どんな閲歴を有してゐると云ふことも、おほよそは窺《うかゞ》ふことが出来たであらう。
 私は此聞書の 〔e'diteur〕 として、多くの事を書き添へる必要を感ぜない。只これが私の手で公にせられることになつた来歴を言つて置きたい。私は既に大学を出て、父の許《もと》にゐて、弟|篤次郎《とくじらう》がまだ大学にゐた時の事である。私は篤次郎に、「どうだ、学生仲間にえらい人があるか」と云つた。弟はすぐに二人の同級生の名を挙げた。一人はKと云つて、豪放な人物、今一人は津下正高といつて、狷介《けんかい》な人物だといふことであつた。弟は後に才子を理想とするやうになつたが、当時はまだ豪傑を理想としてゐたのである。Kも津下君も弟が私に紹介した。Kは力士のやうに肥満した男で、柔術が好《すき》であつた。気の毒な事には、酒興に任せて強盗にまぎらはしい事をして、学生の籍を削られた。津下君は即鹿太で、此聞書の auteur である。
 津下君は色の蒼白《あをじろ》い細面《ほそおもて》の青年で、いつも眉根《まゆね》に皺《しわ》を寄せてゐた。私は君の一家の否運が Kain のしるしのやうに、君の相貌の上に見《あら》はれてゐたかと思ふ。君は寡言《くわげん》の人で、私も当時余り饒舌《しやべ》らなかつたので、此会見は殆《ほとん》ど睨合《にらみあひ》を以て終つたらしい。しかしそれから後三十年の今に至るまで、津下君は私に通信することを怠らない。私が不精《ぶしやう》で返事をせぬのを、君は意に介せない。津下君は私に面会してから、間もなく大学を去つて、所々に流寓《りうぐう》した。其手紙は北海道から来たこともある。朝鮮から来たこともある。兎に角私は始終君を視野の外に失はずにゐた。
 大正二年十月十三日に、津下君は突然私の家を尋ねて、父四郎左衛門の事を話した。聞書は話の殆《ほとんど》其|儘《まゝ》である。君は私に書き直させようとしたが、私は君の肺腑《はいふ》から流れ出た語の権威を尊重して、殆其儘これを公にする。只物語の時と所とに就いて、杉孫七郎、青木梅三郎、中岡|黙《もく》、徳富猪一郎、志水小一郎、山辺丈夫《やまのべたけを》の諸君に質《たゞ》して、二三の補正を加へただけである。津下君は久しく見ぬ間に、体格の巌畳《がんでふ》な、顔色の晴々した人になつてゐて、昔の憂愁の影はもう痕《あと》だになかつた。私は「書後」の筆を投ずるに臨《のぞ》んで敬《つゝし》んで君の健康を祝する。
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 上の中央公論に載せた初稿は媒《なかだち》となつて、わたくしに数多《あまた》の人を識らしめた。中には当時四郎左衛門と親善であつた人さへある。此等の人々の談話、書牘《しよとく》、その所蔵の文書等に由つて、わたくしは上の一篇の中なる人名等に多少の改刪《かいさん》を加へた。比較的正確だと認めたものを取つたのである。わたくしは猶《なほ》下の数事を知ることを得た。
 津下四郎左衛門の容貌が彼《か》の正高さんに似てゐたことは本文でも察せられる。しかし四郎左衛門は躯幹《くかん》が稍《やゝ》長大で、顔が稍|円《まる》かつたさうである。
 京都で四郎左衛門の潜伏してゐた三宅典膳の家の土蔵は、其後母屋は改築せられたのに、猶旧形を存してゐて、道路より望見することが出来るさうである。当時食を土蔵に運びなどした女が現存して、白山《はくさん》御殿町に住んでゐるが、氏名を公にすることを欲せぬと云ふことである。
 本文にわたくしは上田立夫と四郎左衛門とが故郷を出でゝ京都に入る時、早く斬奸《ざんかん》の謀《はかりごと》を定めてゐたと書いた。しかし是《これ》は必
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