フある上田が捕へられて見れば、海間の心づくしも徒事《とじ》になつた。
四郎左衛門が捕へられてから中一日置いて、十六日に柳田は創のために死んだ。牢屋にはまだ旧幕の遺風が行はれてゐたので、其|屍《しかばね》は塩漬にせられた。上田と四郎左衛門とが捕へられた後に、備前で勇戦隊を編成した松本|箕之介《みのすけ》は入牢《にふらう》し、これに与《あづか》つた家老戸倉左膳の臣斎藤直彦も取調を受けた。
当時の法廷の摸様は、信憑《しんぴよう》すべき記載もなく、又其事に与《あづか》つた人も亡くなつたので、私は精《くは》しく知らぬが、裁判官の中にも同志の人たちに同情するものがあつたので、苛酷な処置には出《い》でなかつたさうである。私は又|薫子《にほこ》と云ふ女があつて、四郎左衛門を放免して貰はうとして周旋したと云ふことを聞いた。幼年の私は、天子様のために働いて入牢した父を、救はうとした女だと云ふので、下髪《さげがみ》に緋《ひ》の袴《はかま》を穿《は》いた官女のやうに思つてゐた。しかし実はどう云ふ身分の女であつたかわからない。後明治十一二年の頃、薫子は岡山に来て、人を集めて敬神尊王の話をしたり、人に歌を書いて遣《や》つたりしたさうであるが、私は其頃もう岡山にゐなかつた。
父四郎左衛門は明治三年十月十日に斬られたと云ふことである。官辺への遠慮があるので、墓は立てずにしまつた。私には香花《かうげ》を手向《たむ》くべき父の墓と云ふものが無いのである。私は今は記《おぼ》えてゐぬが、父の訃音《ふいん》が聞えた時、私はどうして死んだのかと尋ねたさうである。母が私に斬られて死んだと答へた。私は斬られたなら敵《かたき》があらう、其敵は私がかうして討つと云つて、庭に飛び降りて、木刀で山梔《くちなし》の枝を敲《たゝ》き折つた。母はそれに驚いて、其後は私の聴く所で父の噂をしなくなつたさうである。
父が亡くなつてから、祖父は力を落して、田畑を預けた小作人の監督をもしなくなつた。収穫は次第に耗《へ》つて、家が貧しくなつて、跡には母と私とが殆ど無財産の寡婦《くわふ》孤児として残つた。啻《ただ》に寡婦孤児だといふのみではない。私共は刑余《けいよ》の人の妻子である。日蔭ものである。
母は私を養育し、又段々と成長する私を学校へ遣るために、身を粉に砕くやうな苦労をした。
私は母のお蔭で、東京大学に籍を置くまでになつたが、種々の障礙《しやうがい》のために半途で退学した。私は今其障礙を数へて、めめしい分疏《いひわけ》をしたくは無い。しかし只一つ言ひたいのは、私が幼い時から、刑死した父の冤《ゑん》を雪《そゝ》がうと思ふ熱烈な情に駆られて、専念に学問を研究することが出来なかつたといふ事実である。
人は或は云ふかも知れない。学問を勉強して、名を成し家を興すのが、即ち父の冤を雪ぐ所以《ゆゑん》ではないかといふかも知れない。しかしそれは理窟である。私は亡父のために日夜憂悶して、学問に思を潜《ひそ》めることが出来なかつた。燃えるやうな私の情を押し鎮《しづ》めるには冷かな理性の力が余りに微弱であつた。
父は人を殺した。それは悪事である。しかし其の殺された人が悪人であつたら、又末代まで悪人と認められる人であつたら、殺したのが当然の事になるだらう。生憎《あいにく》其の殺された人は悪人ではなかつた。今から顧みて、それを悪人だといふ人は無い。そんなら父は善人を殺したのか。否、父は自ら認めて悪人となした人を殺したのである。それは父が一人さう認めたのでは無い。当時の世間が一般に悪人だと認めたのだといつても好い。善悪の標準は時と所とに従つて変化する。当時の父は当時の悪人を殺したのだ。其父がなぜ刑死しなくてはならなかつたか。其父の妻子がなぜ日蔭ものにならなくてはならぬか。かう云ふ取留《とりとめ》のない、tautologie に類し、circulus vitiosus に類した思想の連鎖が、蜘蛛《くも》の糸のやうに私の精神に絡み附いて、私の読みさした巻を閉ぢさせ、書き掛けた筆を抛《なげう》たせたのである。
私は学問を廃してから、下級の官公吏の間に伍して、母子の口を糊《のり》するだけの俸給を得た。それからは私の執る職務が、器械的の精神上労作に限られたので、私は父の冤を雪ぐと云ふことに、全力を用ゐようとした。しかしそれは譬《たと》へやうのない困難な事であつた。
私は先づ父の行状を出来るだけ精《くは》しく知らうとした。それは父が善良な人であつたと云ふことを、私は固く信じてゐるので、父の行状が精しく知れれば知れる程、父の名誉を大きくすることになると思つたからである。私は休暇を得る毎《ごと》に旅行して、父の足跡を印した土地を悉《こと/″\》く踏破した。私は父を知つてゐた人、又は父の事を聞いたことのある人があると、
前へ
次へ
全15ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング