黷ス二三日後に、辻々《つじ/\》に貼り出された文書などが、影響を与へてゐるのであつた。此文書は何者の手に出でたか、同志の干《あづか》り知らぬものであつたが、其文章を推するに、例の落首などの如き悪戯《いたづら》ではなく、全く同志を庇護《ひご》しようとしたものと見えた。貼札は間もなく警吏が剥《は》いで廻つたが、市中には写し伝へたものが少く無かつた。其文はかうである。
「去んぬる五日、徴士横井平四郎を、寺町に於いて、白日斬殺に及びし者あり。一人は縛《ばく》に就《つき》、余党は厳しく追捕せられると云《いふ》。右|斬奸之徒《ざんかんのと》、吾|未《いま》だ其人を雖不知《しらずといへども》、全く憂国之至誠より出でたる事と察せらる。夫《そ》れ平四郎が奸邪、天下|所皆知也《みなしるところなり》。初め旧幕に阿諛《あゆ》し、恐多《おそれおほ》くも廃帝之説を唱へ、万古一統の天日嗣《あまつひつぎ》を危《あやう》うせんとす。且《かつ》憂国之正士を構陥讒戮《こうかんざんりく》し、此頃|外夷《ぐわいい》に内通し、耶蘇《やそ》教を皇国に蔓布《まんぷ》することを約す。又朝廷の急務とする所の兵機を屏棄《へいき》せんとす。其余之罪悪、不遑枚挙《まいきよにいとまあらず》。今王政一新、四海|属目《しよくもく》之時に当りて、如此《かくのごとき》大奸要路に横《よこたは》り、朝典を敗壊し、朝権を毀損《きそん》し、朝土を惑乱し、堂々たる我神州をして犬羊に斉《ひと》しき醜夷の属国たらしめんとす。彼徒《かのと》は之《これ》を寛仮すること能《あた》はず、不得已《やむをえず》斬殺に及びしものなり。其壮烈果敢、桜田の挙にも可比較《ひかくすべし》。是《この》故《ゆゑ》に苟《いやしくも》有義気《ぎきある》者、愉快と称せざるはなし。抑如此《そも/\かくのごとき》事変は、下情の壅塞《ようそく》せるより起る。前には言路洞開を令せらると雖《いへど》も、空名のみにして其|実《じつ》なし。忠誠|※[#「魚+更」、第3水準1−94−42]直《かうちやく》之者は固陋《ころう》なりとして擯斥《ひんせき》せられ、平四郎の如き朝廷を誣罔《ぶまう》する大奸賊|登庸《とうよう》せられ、類を以て集り、政体を頽壊《たいくわい》し、外夷|愈《いよ/\》跋扈《ばつこ》せり。有志之士、不堪杞憂《きいうにたへず》、屡《しば/\》正論|※[#「言+黨」、第4水準2−88−84]議《たうぎ》すと雖、雲霧|濛々《もう/\》、毫《がう》も採用せられず。乃《すなは》ち断然|奸魁《かんくわい》を斃《たふ》して、朝廷の反省を促す。下情|壅塞《ようそく》せるより起ると云ふは即是也《すなはちこれなり》。切に願ふ、朝廷此情実を諒《りやう》とし給ひ、詔《みことのり》を下して朝野の直言を求め、奸佞《かんねい》を駆逐し、忠正を登庸し、邪説を破り、大体を明《あきらか》にし給はむことを。若夫《もしそれ》斬奸之徒は、其情を嘉《よみ》し、其実を不論《あげつらはず》、其実を推し、其名を不問《とはず》、速《すみやか》に放赦《はうしや》せられよ。果して然らば、啻《たゞ》に国体を維持し、外夷の軽侮を絶つのみならず、天下之士、朝廷改過の速《すみやか》なるに悦服し、斬奸の挙も亦|迹《あと》を絶たむ。然らずんば奸臣|朝《てう》に満ち、乾綱《けんかう》紐《ひも》を解き、内憂外患|交《こも/″\》至り、彼《かの》衰亡の幕府と択《えら》ぶなきに至らむ。於是乎《こゝにおいてか》、憂国之士、奮然|蹶起《けつき》して、奸邪を芟夷《さんい》し、孑遺《げつゐ》なきを期すべし。是れ朝廷の威信を繋《つな》ぐ所以《ゆゑん》の道に非ず。皇祖天神照鑒在上。吾説の是非、豈《あに》論ずるを須《もち》ゐんや。吾に左袒《さたん》する者は、檄《げき》の至るを待ち、叡山《えいざん》に来会せよ。共に回天の大策を可議者也《ぎすべきものなり》。明治二年春王正月、大日本憂世子。」
 此貼札に更に紙片を貼り附けて、「右三日之間|令掲示《けいじせしめ》候間、猥《みだり》に取除候者あらば斬捨可申《きりすてまうすべく》候事」と書いてあつた。これは後に弾正台《だんじやうだい》に勤めてゐた、四郎左衛門の剣術の師阿部守衛が、公文書の中から写し取つて置いたものである。
 横井を殺してから九日目の正月十四日に、四郎左衛門が当時官吏になつてゐた信州の知人近藤十兵衛の所に往つて、官辺での取沙汰を尋ねてゐると、そこへ警吏が踏み込んで、主人と客とを拘引した。これは上田が鹿島と一しよに高野山の麓《ふもと》で捕へられたために、上田の親友であつた四郎左衛門が逮捕せられることになつたのである。初め海間が喚《よ》ばれた時、裁判官は備前の志士の事を糺問《きうもん》したが、海間は言を左右に託して、嫌疑の上田等の上に及ぶことを避けた。しかし腕に切創《きりきず》
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