沈黙の塔
森鴎外

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)夕《ゆうべ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)安楽|椅子《いす》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、アクセント符号、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](明治四十三年十一月)

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Le《ル》 Roman《ロマン》 expe'rimental《エクスペリマンタル》〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 高い塔が夕《ゆうべ》の空に聳《そび》えている。
 塔の上に集まっている鴉《からす》が、立ちそうにしてはまた止まる。そして啼《な》き騒いでいる。
 鴉の群れを離れて、鴉の振舞《ふるまい》を憎んでいるのかと思われるように、鴎《かもめ》が二三羽、きれぎれの啼声をして、塔に近くなったり遠くなったりして飛んでいる。
 疲れたような馬が車を重げに挽《ひ》いて、塔の下に来る。何物かが車から卸されて、塔の内に運び入れられる。
 一台の車が去れば、次の一台の車が来る。塔の内に運び入れられる品物はなかなか多いのである。
 己《おれ》は海岸に立ってこの様子を見ている。汐《しお》は鈍く緩く、ぴたりぴたりと岸の石垣を洗っている。市の方から塔へ来て、塔から市の方へ帰る車が、己の前を通り過ぎる。どの車にも、軟《やわらか》い鼠色《ねずみいろ》の帽の、鍔《つば》を下へ曲げたのを被《かぶ》った男が、馭者台《ぎょしゃだい》に乗って、俯向《うつむ》き加減になっている。
 不精らしく歩いて行く馬の蹄《ひづめ》の音と、小石に触れて鈍く軋《きし》る車輪の響とが、単調に聞える。
 己は塔が灰色の中に灰色で画《えが》かれたようになるまで、海岸に立ち尽《つく》していた。

       *          *          *

 電灯の明るく照っている、ホテルの広間に這入ったとき、己は粗い格子の縞羅紗《しまらしゃ》のジャケツとずぼんとを着た男の、長い脚を交叉《こうさ》させて、安楽|椅子《いす》に仰向けに寝たように腰を掛けて新聞を読んでいるのを見た。この、柳敬助という人の画が toile《トアル》 を抜け出たかと思うように脚の長い男には、きのうも同じ広間で出合ったことがあるのである。
「何か面白い事がありますか」と、己は声を掛けた。
 新聞を広げている両手の位置を換えずに、脚長は不精らしくちょいと横目でこっちを見た。「Nothing at all!」物を言い掛けた己に対してよりは、新聞に対して不平なような調子で言い放ったが、暫《しばら》くして言い足した。「また椰子《やし》の殻に爆弾を詰めたのが二つ三つあったそうですよ。」
「革命党ですね。」
 己は大理石の卓の上にあるマッチ立てを引き寄せて、煙草に火を附けて、椅子に腰を掛けた。
 暫くしてから、脚長が新聞を卓の上に置いて、退屈らしい顔をしているから、己はまた話し掛けた。「へんな塔のある処へ往って見て来ましたよ。」
「Malabar《マラバア》 hill《ヒル》 でしょう。」
「あれはなんの塔ですか。」
「沈黙の塔です。」
「車で塔の中へ運ぶのはなんですか。」
「死骸《しがい》です。」
「なんの死骸ですか。」
「Parsi《パアシイ》 族の死骸です。」
「なんであんなに沢山死ぬのでしょう。コレラでも流行《はや》っているのですか。」
「殺すのです。また二三十人殺したと、新聞に出ていましたよ。」
「誰《たれ》が殺しますか。」
「仲間同志で殺すのです。」
「なぜ。」
「危険な書物を読む奴《やつ》を殺すのです。」
「どんな本ですか。」
「自然主義と社会主義との本です。」
「妙な取り合せですなあ。」
「自然主義の本と社会主義の本とは別々ですよ。」
「はあ。どうも好く分かりませんなあ。本の名でも知れていますか。」
「一々書いてありますよ。」脚長は卓の上に置いた新聞を取って、広げて己の前へ出した。
 己は新聞を取り上げて読み始めた。脚長は退屈そうな顔をして、安楽椅子に掛けている。
 直ぐに己の目に附いた「パアシイ族の血腥《ちなまぐさ》き争闘」という標題の記事は、かなり客観的に書いたものであった。

       *          *          *

 パアシイ族の少壮者は外国語を教えられているので、段々西洋の書物を読むようになった。英語が最も広く行われている。しかし仏語《ふつご》や独逸《ドイツ》語も少しずつは通じるようになっている。この少壮者の間に新しい文芸が出来た。それは主として小説で、その小説は作者の口からも、作者の友達の口からも、自然主義の名を以て吹
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