心も疲れ果て、最早《もはや》一歩も進むことの出来なくなつた平八郎|父子《ふし》と瀬田、渡辺とである。
 四人は翌二十日に河内《かはち》の界《さかひ》に入《い》つて、食を求める外には人家に立ち寄らぬやうに心掛け、平野川に沿うて、間道《かんだう》を東へ急いだ。さて途中どこで夜を明かさうかと思つてゐるうち、夜なかから大風雨になつた。やう/\産土《うぶすな》の社《やしろ》を見付けて駈《か》け込んでゐると、暫く物を案じてゐた渡辺が、突然もう此先きは歩けさうにないから、先生の手足纏《てあしまとひ》にならぬやうにすると云つて、手早く脇差《わきざし》を抜いて腹に突き立てた。左の脇腹に三寸余り切先《きつさき》が這入《はひ》つたので、所詮《しよせん》助からぬと見極《みきは》めて、平八郎が介錯《かいしやく》した。渡辺は色の白い、少し歯の出た、温順篤実な男で、年齢は僅《わづか》に四十を越したばかりであつた。
 二十一日の暁《あかつき》になつても、大風雨は止《や》みさうな気色《けしき》もない。平八郎|父子《ふし》と瀬田とは、渡辺の死骸《しがい》を跡《あと》に残して、産土《うぶすな》の社《やしろ》を出た。土地の百姓が死骸を見出して訴《うつた》へたのは、二十二日の事であつた。社のあつた所は河内国《かはちのくに》志紀郡《しきごほり》田井中村《たゐなかむら》である。
 三人は風雨を冒《をか》して、間道を東北の方向に進んだ。風雨はやう/\午頃《ひるごろ》に息《や》んだが、肌まで濡《ぬ》れ通《とほ》つて、寒さは身に染《し》みる。辛《から》うじて大和川《やまとがは》の支流幾つかを渡つて、夜《よ》に入つて高安郡《たかやすごほり》恩地村《おんちむら》に着いた。さて例の通《とほり》人家を避けて、籔陰《やぶかげ》の辻堂を捜し当てた。近辺から枯枝《かれえだ》を集めて来て、おそる/\焚火《たきび》をしてゐると、瀬田が発熱《ほつねつ》して来た。いつも血色の悪い、蒼白《あをじろ》い顔が、大酒《たいしゆ》をしたやうに暗赤色《あんせきしよく》になつて、持前の二皮目《ふたかはめ》が血走《ちばし》つてゐる。平八郎父子が物を言ひ掛ければ、驚いたやうに返事をするが、其|間々《あひだ/\》は焚火の前に蹲《うづくま》つて、現《うつゝ》とも夢《ゆめ》とも分からなくなつてゐる。ここまで来る途中で、先生が寒からうと云つて、瀬田は自分の着てゐた羽織を脱《ぬ》いで平八郎に襲《かさ》ねさせたので、誰よりも強く寒さに侵《をか》されたものだらう。平八郎は瀬田に、兎《と》に角《かく》人家に立ち寄つて保養して跡から来るが好いと云つて、無理に田圃道《たんぼみち》を百姓家のある方へ往かせた。其|後影《うしろかげ》を暫く見送つてゐた平八郎は、急に身を起して焚火を踏み消した。そして信貴越《しぎごえ》の方角を志《こゝろざ》して、格之助と一しよに、又|間道《かんだう》を歩き出した。
 瀬田は頭がぼんやりして、体《からだ》ぢゆうの脈が鼓《つゞみ》を打つやうに耳に響く。狭い田の畔道《くろみち》を踏んで行くに、足がどこを踏んでゐるか感じが無い。動《やゝ》もすれば苅株《きりかぶ》の間の湿《しめ》つた泥に足を蹈《ふ》み込む。やう/\一軒の百姓家の戸の隙《すき》から明かりのさしてゐるのにたどり着いて、瀬田ははつきりとした声で、暫《しばら》く休息させて貰《もら》ひたいと云つた。雨戸を開けて顔を出したのは、四角な赭《あか》ら顔の爺《ぢ》いさんである。瀬田の様子をぢつと見てゐたが、思《おもひ》の外《ほか》拒《こば》まうともせずに、囲炉裏《ゐろり》の側《そば》に寄つて休めと云つた。婆《ば》あさんが草鞋《わらぢ》を脱《ぬ》がせて、足を洗つてくれた。瀬田は火の側《そば》に横になるや否《いな》や、目を閉ぢてすぐに鼾《いびき》をかき出した。其時爺いさんはそつと瀬田の顔に手を当てた。瀬田は知らずにゐた。爺いさんはその手を瀬田の腰の所に持つて往つて、脇差《わきざし》を抜き取つた。そしてそれを持つて、家を駈け出した。行灯《あんどう》の下にすわつた婆あさんは、呆《あき》れて夫の跡《あと》を見送つた。
 瀬田は夢を見てゐる。松並木のどこまでも続いてゐる街道を、自分は力限《ちからかぎり》駈《か》けて行く。跡《あと》から大勢《おほぜい》の人が追ひ掛けて来る。自分の身は非常に軽くて、殆《ほとんど》鳥の飛ぶやうに駈けることが出来る。それに追ふものの足音が少しも遠ざからない。瀬田は自分の足の早いのに頗《すこぶる》満足して、只《たゞ》追ふものの足音の同じやうに近く聞えるのを不審に思つてゐる。足音は急調《きふてう》に鼓《つゞみ》を打つ様に聞える。ふと気が附いて見ると、足音と思つたのは、自分の脈の響くのであつた。意識が次第に明瞭になると共に、瀬田は腰の物の亡《な》くなつたのを知つた
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