者脇は京橋口へ往つて、同心支配|広瀬治左衛門《ひろせぢざゑもん》、馬場佐十郎《ばゝさじふらう》に遠藤の命令を伝達した。これは京橋口|定番《ぢやうばん》米津丹後守昌寿《よねづたんごのかみまさひさ》が、去年十一月に任命せられて、まだ到着せぬので、京橋口も遠藤が預《あづか》りになつてゐるからである。広瀬は伝達の書附を見て、首を傾けて何やら思案してゐたが、脇へはいづれ当方から出向いて承《うけたまは》らうと云つた。
広瀬は雪駄穿《せつたばき》で東町奉行所に来て、坂本に逢つてかう云つた。「只今書面を拝見して、これへ出向いて参りましたが、原来《ぐわんらい》お互《たがひ》に御城警固《おんしろけいご》の役柄ではありませんか。それをお城の外で使はうと云ふ、遠藤殿の思召《おぼしめし》が分かり兼ねます。貴殿《きでん》はどう考へられますか。」
坂本は目を※[#「目へん+爭」、第3水準1−88−85、196−1]《みは》つた。「成程《なるほど》自分の役柄は拙者《せつしや》も心得てをります。併《しか》し頭《かしら》遠藤殿の申付《まをしつけ》であつて見れば、縦《たと》ひ生駒山《いこまやま》を越してでも出張せんではなりますまい。御覧の通《とほり》拙者は打支度《うちしたく》をいたしてをります。」
「いや。それは頭《かしら》御自身が御出馬になることなら、拙者もどちらへでも出張しませう。我々ばかりがこんな所へ参つて働いては、町奉行の下知《げぢ》を受《うけ》るやうなわけで、体面にも係《かゝは》るではありませんか。先年|出水《しゆつすゐ》の時、城代松平伊豆守殿へ町奉行が出兵を願つたが、大切の御城警固《おんしろけいご》の者を貸すことは相成らぬと仰《おつし》やつたやうに聞いてをります。一応御一しよにことわつて見ようぢやありませんか。」
「それは御同意がなり兼ねます。頭《かしら》の申付《まをしつけ》なら、拙者は誰の下《した》にでも附いて働きます。その上|叛逆人《ほんぎやくにん》が起つた場合は出水《しゆつすゐ》などとは違ひます。貴殿がおことわりになるなら、どうぞお一人で上屋敷《かみやしき》へお出《いで》になつて下さい。」
「いや。さう云ふ御所存ですか。何事によらず両組相談の上で取り計らふ慣例でありますから申し出《だ》しました。さやうなら以後御相談は申しますまい。」
「已《や》むを得ません。いかやうとも御勝手になさりませい。」
「然《しか》らばお暇《いとま》しませう。」広瀬は町奉行所を出ようとした。
そこへ京橋口を廻つて来た畑佐《はたさ》が落ち合つて、広瀬を引き止めて利害を説いた。広瀬はしぶりながら納得して引き返したが、暫《しばら》くして同心三十人を連れて来た。併《しか》し自分は矢張|雪駄穿《せつたばき》で、小筒《こづゝ》も何も持たなかつた。
坂本は庭に出て、今工事を片付けて持口《もちくち》に附いた同心共を見張つてゐた。そこへ跡部《あとべ》は、相役《あひやく》堀を城代|土井大炊頭利位《どゐおほひのかみとしつら》の所へ報告に遣《や》つて置いて、書院から降りて来た。そして天満《てんま》の火事を見てゐた。強くはないが、方角の極《き》まらぬ風が折々吹くので、火は人家の立て込んでゐる西南《にしみなみ》の方へひろがつて行く。大塩の進む道筋を聞いた坂本が、「いかがでございませう、御出馬になりましては」と跡部に言つた。「されば」と云つて、跡部は火事を見てゐる。暫くして坂本が、「どうもなか/\こちらへは参りますまいが」と云つた。跡部は矢張「されば」と云つて、火事を見てゐる。
七、船場
大塩平八郎は天満与力町《てんまよりきまち》を西へ進みながら、平生|私曲《しきよく》のあるやうに思つた与力の家々に大筒を打ち込ませて、夫婦町《めうとまち》の四辻《よつつじ》から綿屋町《わたやまち》を南へ折れた。それから天満宮の側《そば》を通つて、天神橋に掛かつた。向うを見れば、もう天神橋はこはされてゐる。ここまで来るうちに、兼《かね》て天満に火事があつたら駆け附けてくれと言ひ付けてあつた近郷《きんがう》の者が寄つて来たり、途中で行き逢つて誘はれたりした者があるので、同勢三百人ばかりになつた。不意に馳《は》せ加はつたものの中に、砲術の心得《こゝろえ》のある梅田源左衛門《うめだげんざゑもん》と云ふ彦根浪人もあつた。
平八郎は天神橋のこはされたのを見て、菅原町河岸《すがはらまちかし》を西に進んで、門樋橋《かどひばし》を渡り、樋上町河岸《ひかみまちかし》を難波橋《なんばばし》の袂《たもと》に出た。見れば天神橋をこはしてしまつて、こちらへ廻つた杣人足《そまにんそく》が、今難波橋の橋板を剥《は》がさうとしてゐる所である。「それ、渡れ」と云ふと、格之助が先に立つて橋に掛かつた。人足は抜身《ぬきみ》の鑓《やり》を
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