に指図を聞いた。平八郎は項垂《うなだ》れてゐた頭《かしら》を挙げて、「これから拙者《せつしや》の所存《しよぞん》をお話いたすから、一同聞いてくれられい」と云つた。所存と云ふのは大略かうである。此度《このたび》の企《くはだて》は残賊《ざんぞく》を誅《ちゆう》して禍害《くわがい》を絶《た》つと云ふ事と、私蓄《しちく》を発《あば》いて陥溺《かんでき》を救ふと云ふ事との二つを志《こゝろざ》した者である。然《しか》るに彼《かれ》は全《まつた》く敗れ、此《これ》は成るに垂《なん/\》として挫《くじ》けた。主謀たる自分は天をも怨《うら》まず、人をも尤《とが》めない。只《たゞ》気の毒に堪へぬのは、親戚故旧友人徒弟たるお前方《まへがた》である。自分はお前方に罪を謝する。どうぞ此同舟の会合を最後の団欒《だんらん》として、袂《たもと》を分つて陸《りく》に上《のぼ》り、各《おの/\》潔《いさぎよ》く処決して貰《もら》ひたい。自分等|父子《ふし》は最早《もはや》思ひ置くこともないが、跡《あと》には女小供がある。橋本氏には大工作兵衛を連れて、いかにもして彼等の隠家《かくれが》へ往き、自裁《じさい》するやうに勧めて貰ふことを頼むと云ふのである。平八郎の妾《めかけ》以下は、初め般若寺村《はんにやじむら》の橋本方へ立《た》ち退《の》いて、それから伊丹《いたみ》の紙屋某|方《かた》へ往つたのである。後に彼等が縛《ばく》に就《つ》いたのは京都であつたが、それは二人の妾が弓太郎《ゆみたろう》を残しては死なれぬと云ふので、橋本が連れてさまよひ歩いた末である。
 暮《くれ》六つ頃から、天満橋北詰《てんまばしきたづめ》の人の目に立たぬ所に舟を寄せて、先づ橋本と作兵衛とが上陸した。次いで父|柏岡《かしはをか》、西村、茨田《いばらた》、高橋と瀬田に暇《いとま》を貰つた植松《うゑまつ》との五人が上陸した。後に茨田は瀬田の妻子を落《おと》して遣《や》つた上で自首し、父柏岡と高橋とも自首し、西村は江戸で願人坊主《ぐわんにんばうず》になつて、時疫《じえき》で死に、植松は京都で捕はれた。
 跡《あと》に残つた人々は土佐堀川《とさぼりがは》から西横堀川《にしよこぼりがは》に這入《はひ》つて、新築地《しんつきぢ》に上陸した。平八郎、格之助、瀬田、渡辺、庄司、白井、杉山の七人である。人々は平八郎に迫《せま》つて所存《しよぞん》を問
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