るかと思つて、頸《くび》を延《の》ばして見ると、先生はいつもの通《とほり》に着布団《きぶとん》の襟《えり》を頤《あご》の下に挿《はさ》むやうにして寝てゐる。物音は次第に劇《はげ》しくなる。岡田は心のはつきりすると共に、尋常でない此屋敷の現状が意識に上つて来た。
 岡田は跳《は》ね起《お》きた。宇津木の枕元《まくらもと》にゐざり寄つて、「先生」と声を掛けた。
 宇津木は黙つて目を大きく開いた。眠つてはゐなかつたのである。
「先生。えらい騒ぎでございますが。」
「うん。知つてをる。己《おれ》は余り人を信じ過ぎて、君をまで危地《きち》に置いた。こらへてくれ給《たま》へ。去年の秋からの丁打《ちやううち》の支度《したく》が、仰山《ぎやうさん》だとは己《おれ》も思つた。それに門人中の老輩《らうはい》数人と、塾生の一半とが、次第に我々と疎遠になつて、何か我々の知らぬ事を知つてをるらしい素振《そぶり》をする。それを怪《あや》しいとは己《おれ》も思つた。併《しか》し己はゆうべまで事の真相を看破することが出来なかつた。所《ところ》が君、ゆうべ塾生一同に申し渡すことがあると云つて呼んだ、あの時の事だね。己は代りに聞いて来て遣《や》ると云つて、君を残して置いて出席した。それから帰つて、格別な事でもないから、あした話すと云つて寝たのだがね、実はあの時例の老輩共と酒宴をしてゐた先生が、独《ひと》り席を起《た》つて我々の集まつてゐる所へ出て来て、かう云つたのだ。一大事であるが、お前方《まへがた》はどう身を処置するか承知したいと云つたのだ。己《おれ》は一大事とは何事か問うて見た。先生はざつとこんな事を説かれた。我々は平生|良知《りやうち》の学を攻《をさ》めてゐる。あれは根本の教《をしへ》だ。然《しか》るに今の天下の形勢は枝葉《しえふ》を病《や》んでゐる。民の疲弊《ひへい》は窮《きは》まつてゐる。草妨礙《くさばうがい》あらば、理《り》亦《また》宜《よろ》しく去《さ》るべしである。天下のために残賊《ざんぞく》を除かんではならぬと云ふのだ。そこで其残賊だがな。」
「はあ」と云つて、岡田は目を※[#「目へん+爭」、第3水準1−88−85、180−3]《みは》つた。
「先づ町奉行衆《まちぶぎやうしゆう》位《くらゐ》の所らしい。それがなんになる。我々は実に先生を見損《みそこな》つてをつたのだ。先生の眼中には将
前へ 次へ
全63ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング