むき》は一大事があつて吉見九郎右衛門の訴状《そじやう》を持参したのを、ぢきにお奉行様《ぶぎやうさま》に差し出したいと云ふことである。
 上下共《じやうげとも》何か事がありさうに思つてゐた時、一大事と云つたので、それが門番の耳にも相応に強く響いた。門番は猶予《いうよ》なく潜門《くゞりもん》をあけて二人の少年を入れた。まだ暁《あかつき》の白《しら》けた光が夜闇《よやみ》の衣《きぬ》を僅《わづか》に穿《うが》つてゐる時で、薄曇《うすぐもり》の空の下、風の無い、沈んだ空気の中に、二人は寒げに立つてゐる。英太郎《えいたらう》は十六歳、八十次郎《やそじらう》は十八歳である。
「お奉行様にぢきに差し上げる書付《かきつけ》があるのだな。」門番は念を押した。
「はい。ここに持つてをります。」英太郎が懐《ふところ》を指《ゆび》さした。
「お前がその吉見九郎右衛門の倅《せがれ》か。なぜ九郎右衛門が自分で持つて来ぬのか。」
「父は病気で寝てをります。」
「一体《いつたい》東のお奉行所|附《づき》のものの書付《かきつけ》なら、なぜそれを西のお奉行所へ持つて来たのだい。」
「西のお奉行様にでなくては申し上げられぬと、父が申しました。」
「ふん。さうか。」門番は八十次郎《やそじらう》の方に向いた。「お前はなぜ附いて来たのか。」
「大切な事だから、間違《まちがひ》の無いやうに二人《ふたり》で往《い》けと、吉見のをぢさんが言ひ附けました。」
「ふん。お前は河合と言つたな。お前の親父様《おやぢさま》は承知してお前をよこしたのかい。」
「父は正月の二十七日に出た切《きり》、帰つて来ません。」
「さうか。」
 門番は二人の若者に対して、こんな問答をした。吉見の父が少年二人を密訴《みつそ》に出したので、門番も猜疑心《さいぎしん》を起さずに応対して、却《かへ》つて運びが好かつた。門番の聞き取つた所を、当番のものが中泉《なかいづみ》に届ける。中泉が堀に申し上げる。間もなく堀の指図で、中泉が二人を長屋に呼び入れて、一応取り調べた上|訴状《そじやう》を受け取つた。
 堀は前役《ぜんやく》矢部駿河守定謙《やべするがのかみさだかた》の後《のち》を襲《つ》いで、去年十一月に西町奉行になつて、やう/\今月二日に到着した。東西の町奉行は月番交代《つきばんかうたい》をして職務を行《おこな》つてゐて、今月は堀が非番《ひばん》であ
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