弼《あとべやましろのかみよしすけ》が堀の手紙を受け取つたのは、明《あけ》六つ時《どき》頃であつた。
 大阪の東町奉行所は城の京橋口《きやうばしぐち》の外、京橋|通《どほり》と谷町《たにまち》との角屋敷《かどやしき》で、天満橋《てんまばし》の南詰《みなみづめ》東側にあつた。東は城、西は谷町の通である。南の島町通《しままちどほり》には街を隔てて籾蔵《もみぐら》がある。北は京橋通の河岸《かし》で、書院の庭から見れば、対岸天満組の人家が一目に見える。只《たゞ》庭の外囲《ぐわいゐ》に梅の立木《たちき》があつて、少し展望を遮《さへぎ》るだけである。
 跡部もきのふから堀と同じやうな心配をしてゐる。きのふの御用日にわざと落ち着いて、平常の事務を片附けて、それから平山の密訴《みつそ》した陰謀に対する処置を、堀と相談して別れた後、堀が吉田を呼んだやうに、跡部《あとべ》は東組与力の中で、あれかこれかと慥《たしか》なものを選《よ》り抜いて、とう/\荻野勘左衛門《をぎのかんざゑもん》、同人《どうにん》倅《せがれ》四郎助《しろすけ》、磯矢頼母《いそやたのも》の三人を呼び出した。頼母《たのも》と四郎助とは陰謀の首領を師と仰いでゐるものではあるが、半年以上使つてゐるうちに、その師弟の関係は読書の上ばかりで、師の家とは疎遠にしてゐるのが分かつた。「あの先生は学問はえらいが、肝積持《かんしやくもち》で困ります」などと、四郎助が云つたこともある。「そんな男か」と跡部が聞くと、「矢部様の前でお話をしてゐるうちに激《げき》して来て、六寸もある金頭《かながしら》を頭からめり/\と咬《か》ん食べたさうでございます」と云つた。それに此三人は半年の間跡部の言ひ付けた用事を、人一倍|念入《ねんいり》にしてゐる。そこを見込んで跡部が呼び出したのである。
 さて捕方《とりかた》の事を言ひ付けると、三人共思ひも掛けぬ様子で、良《やゝ》久しく顔を見合せて考へた上で云つた。平山が訴《うつたへ》はいかにも実事《じつじ》とは信ぜられない。例の肝積持《かんしやくもち》の放言を真《ま》に受けたのではあるまいか。お受《うけ》はいたすが、余所《よそ》ながら様子を見て、いよ/\実正《じつしやう》と知れてから手を着けたいと、折り入つて申し出た。後に跡部の手紙で此事を聞いた堀よりは、三人の態度を目《ま》のあたり見た跡部は、一層切実に忌々《いま
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