一年以内には必ず死ぬる牢屋に入れられ、死んでから刑の宣告を受け、塩詰にした死骸を磔柱などに懸けられたものである。これは独《ひとり》平八郎の与党のみではない。平八郎が前に吟味役として取り扱つた邪宗門事件の罪人も、同じ処置に逢つたのである。
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 近い頃のロシアの小説に、※[#「ごんべん+「墟」のつくり」、第4水準2−88−74、261−13]《うそ》を衝《つ》かぬ小学生徒と云ふものを書いたのがある。我事も人の事も、有の儘を教師に告げる。そこで傍輩《ばうはい》に憎まれてゐたたまらなくなるのである。又ドイツの或る新聞は「小学教師は生徒に傍輩の非行を告発することを強制すべきものなりや否や」と云ふ問題を出して、諸方面の名士の答案を募つた。答案は区々《まち/\》であつた。
 個人の告発は、現に諸国の法律で自由行為になつてゐる。昔は一歩進んで、それを褒《ほ》むべき行為にしてゐた。秩序を維持する一の手段として奨励したのである。中にも非行の同類が告発をするのを返忠《かへりちゆう》と称して、これに忠と云ふ名を許すに至つては、奨励の最顕著なるものである。
 平八郎の陰謀を告発した四人は皆其門人で、中で単に手先に使はれた少年二人を除けば、皆其与党である。
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平山助次郎 東組同心 暴動に先だつこと二日、東町奉行跡部良弼に密訴す
吉見九郎右衛門 東組同心 暴動当日の昧爽《まいさう》、西町奉行堀利堅に上書す
吉見英太郎 九郎右衛門倅 九郎右衛門の訴状を堀に呈す
河合八十次郎 平八郎の陰謀に与《くみ》し、半途にして逃亡し、遂に行方不明になりし東組同心郷左衛門の倅《せがれ》なり、陰謀事件の関係者中行方不明になりしは、此郷左衛門と近江小川村医師志村力之助との二人のみ 九郎右衛門の訴状を堀に呈す
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 評定の結果として、平山、吉見は取高の儘|小普請《こぶしん》入を命ぜられ、英太郎、八十次郎の二少年は賞銀を賜はつた。然るに平山は評定の局を結んだ天保九年|閏《うるふ》四月八日と、それが発表せられた八月二十一日との中間、六月二十日に自分の預けられてゐた安房勝山の城主酒井大和守|忠和《ただより》の邸《やしき》で、人間らしく自殺を遂げた。



底本:「鴎外歴史文学集 第二巻」岩波書店
   2000(平成12
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