切の事実を盛り込んで、矛盾が生じなければ、それで一切の事実が正確だと云ふことは証明せられぬまでも、記載の信用は可なり高まるわけである。私は敢《あへ》てそれを試みた。そして其間に推測を逞《たくまし》くしたには相違ないが、余り暴力的な切盛《きりもり》や、人を馬鹿にした捏造《ねつざう》はしなかつた。
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 私の「大塩平八郎」は一日間の事を書くを主としてはゐたのだが、其一日の間に活動してゐる平八郎と周囲の人物とは、皆それぞれの過去を持つてゐる。記憶を持つてゐる。殊《こと》に外生活だけを臚列《ろれつ》するに甘んじないで、幾分か内生活に立ち入つて書くことになると、過去の記憶は比較的大きい影響を其人々の上に加へなくてはならない。さう云ふ場合を書く時、一目に見わたしの付くやうに、私は平八郎の年譜を作つた。原稿には次第に種々な事を書き入れたので、啻《たゞ》に些《いさゝか》の空白をも残さぬばかりでなく、文字と文字とが重なり合つて、他人が見てはなんの反古《ほご》だか分からぬやうになつた。ここにはそれを省略して載せる。

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大塩平八郎年譜
寛政五年癸丑(一七九三年) 大塩平八郎後素生る。幼名文之助。祖先は今川氏の族にして、波右衛門と云ふ。今川氏滅びて後、岡崎の徳川家康に仕ふ。小田原役に足立勘平を討ちて弓を賜はる。伊豆塚本に采地《さいち》を授けらる。大阪陣の時、越後柏崎の城を守る。後尾張侯に仕へ、嫡子をして家を襲《つ》がしむ。名古屋白壁町の大塩氏は其後なり。波右衛門の末子《ばつし》大阪に入り、町奉行組与力となる。天満橋筋長柄町東入四軒屋敷に住す。数世にして喜内と云ふものあり。其弟を助左衛門、其子を政之丞成余と云ふ。成余の子を平八郎敬高と云ふ。敬高の弟志摩出でて宮脇氏を冒《をか》す。敬高大西氏を娶《めと》る。文之助を生む。名は後素。字《あざな》は子起。通称は平八郎。中斎と号す。居る所を洗心洞と云ふ。其親族関係左の如し。(幸田)
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橋本氏              某─┬─忠兵衛─┬─みね
                   │     │
                   └ゆう   └松次郎
                    │
       
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