A去年同じ里の美少年|某《なにがし》と結婚せしこと、その夫は今拿破里にありて明日歸り來るべきこと、二人の子どものあるじの妹にて夫の留守の間來り舍《やど》れることなど、話の裏《うち》より聞き出せり。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]は二人の小娘に、査列斯《チヤアレス》銀《ぎん》一つ(伊太利名「カルリイノ」約十五錢五厘)與ふべければ薔薇の花束得させよといひて、そを遠ざけ、あるじに迫りて接吻せんとしたり。初めは詞もてさま/″\に誘ひたれどその驗《しるし》なかりき。次には戲《たはぶれ》のやうにもてなして、掻き抱きたれど、女はいち早く擦《す》り脱《ぬ》けたり。終には路易《ルイ》金《きん》一つ(「ルイドオル」と云ふ、約九圓七十八錢)取出し、指もて撮《つま》みて女の前にきらめかし、只だ一たびの接吻を許さば、これをおん身におくるべし、この金あらば、めでたき飾紐《リボン》あまた買はるべし、その黒き髮に映《うつり》好《よ》きものを擇《えら》み試みんは、いかに樂かるべきぞなど、繰返して説き勸めつ。女は我を指して、あちらのおん方は、おん身に比ぶれば※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]《はるか》に善き人なりと云へり。われ女の手を取りて、努《ゆめ》彼詞に耳傾けんとなし給ひそ、彼黄金の色に目を注がんとなし給ひそ、彼男は惡しき人なり、願はくは彼男にの面當《つらあて》に、われに接吻一つ許し給へといひぬ。女はきと我面を見たり。われ重ねて、さきに彼男の我上を語りし中に、唯だ一つの實事あり、われ未だ一たびも女の唇に觸れずといひしは是なり、我唇は清淨なり、われに接吻し給ふは小兒に接吻し給ふと同じといひぬ。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]。さて/\狡猾なる事を言ふものかな。女をくどく方便《てだて》のみはわれ汝に優れりと覺えつるに、今は汝又我を凌《しの》がんとす。女主人。否々、御身は金をこそ持ち給へれ、心ざま善ならぬ人なり。我が黄金《こがね》をも何ともおもはず、接吻をも何とも思はぬをおん身に見せんため、我はこの詩人の方《かた》に接吻すべし。新く言ひ畢《をは》りて、女主人は雙手《もろて》もて我頬を押へ、我唇に接吻して、家の内に走り入りぬ。
日の入り果てし頃、われは獨り山上なる寺院の一房に坐して、窓より海を眺め居たり。波頭の殘紅は薔薇色をなして、岸打つ潮に自然の節奏を聞く。舟人は漁舟《すなどりぶね》を陸《くが》に曳き上げたり。暮色漸く至れば、新に點《とも》したる燈火その光を増して、水面《みのも》は碧色にかゞやけり。一時四隣は寂として聲なかりき。忽ち歌曲の聲の岸より起るあり。こは漁父の妻子と共に歌ひ出せるにて、子どもらしき「ソプラノ」の音は低き「バツソオ」の音にまじりたり。一種の言ふべからざる情は我胸に溢《あふ》れて、我心はこれがために震ひ動けり。一の流星あり。その疾《と》きこと撃石火《げきせきくわ》の如く、葡萄の林のあなたに隕《お》ちぬとぞ見えし。けふ我に接吻せし氣輕なる新婦《にひよめ》の家も亦彼林のあなたにあり。われは彼女主人の美《うつくし》かりしをおもひ出で、又彼|海神《ポセイドン》祠《し》[#「祠」は底本では「詞」]の畔《ほとり》なる瞽女《ごぜ》の美しかりしをおもひ出でしが、その背後には心と身と皆美しかりしアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線][#「アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]」は底本では「アンヌチヤタ[#「アンヌチヤタ」に傍線]」]ありて、その一たび點したる火は今も猶我身を焦せり。我は餘りの堪へ難さに、口に聖母《マドンナ》の御名《みな》を唱へて、瓶裡《へいり》の薔薇一輪摘み、そを唇に押し當てつゝ心には猶アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が上を思へり。われは情に堪へずして、僧堂を出で、海の方へ降り行きぬ。即ち星輝《せいき》を浴《あ》びたる波の岸に碎くる處、漁父の歌ふ處、涼風の面を撲《う》つ處なり。歩みて晝間過ぎし所の石橋の上に至りぬ。この時一人の身に大外套を被り、忙《せは》しげに我傍を馳せ去りたるあり。われはその姿勢態度を見て、直ちにそのジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]なるを知りぬ。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]は驀地《まつしくら》に走りて、曾て憩ひし白壁の家に向へり。我は心ともなく、その後に跟《したが》ひ行きぬ。家の窓よりは燈火の影洩りたるが、彼の外套着たる姿は其光に照されて、窓の直下に浮び出でぬ。われは葡萄架《ぶだうだな》の暗き處に躱《かく》れ、石に踞して其|状《さま》を覗ひ居たり。帷《まどかけ》を引かざれば、室の内外の光景は明白に我眼に映ぜり。この家の裏の方、側廂《かたびさし》に通ずる大なる梯《はしご》の室内より見ゆる處に、別に又一つの窓あるをも、われは此時始て認め得たり。
室内《へやぬち》には一小卓を安んじ、上に十字架を立てたるが、燈《ともしび》をばその前に點せるなり。二人の小娘は衣《きぬ》を脱《はづ》して、白き汗衫《はだぎ》を鬆《ゆる》やかに身に纏《まと》ひ、卓の下に跪きて讚美歌を歌へり。姉なる新婦《にひよめ》も亦二人の間に坐せり。我目に映じたる此一幅の圖はラフアエロ[#「ラフアエロ」に傍線]の筆に成りたる聖母と二天使との圖と擇《えら》むことなかりき。新婦の漆黒なる瞳子《ひとみ》は上に向ひて、その波紋をなせる髮は白き肩に亂れ落ち、もろ手は曲線美しき胸の上に組み合されたり。
われは屏息《へいそく》してこれを窺《うかゞ》ひ居て、我脈搏の亢進するを覺えたり。既にして三人は立ちあがりぬ。新婦は二兒を延《ひ》きて梯《はしご》を上り、しばらくありて靜かに傍廂《かたびさし》の戸を閉ぢ、獨り梯を下り來りぬ。さて窓に近きところを往來《ゆきき》して、物取り片付けなどし、ふと何事をか思ひ出でしものゝ如く、箪笥の前に坐して、その抽箱《ひきだし》より紅色の手帳一つ取り出だしつ。打ち返し見てほゝ笑み、開き見んとするさまなりしが、忽ち又首打ち掉《ふ》りて、手快《てばや》く抽箱《ひきだし》の中に投じたり。そのさま密事《みそかごと》して父母などに見られしに驚く小兒に似たりき。
暫くして裏の方なる窓を敲《たゝ》く音す。新婦は驚きて頭を擡《もた》げ、耳|欹《そばだ》てゝ聞けり。敲く音は又響きて、何事をか戸外にて言ふ如くなれど、基詞は我が居るところには聞えず。新婦は忽ち聲高く呼べり。檀那《だんな》は何とて斯く遲くこゝに來給ひしぞ。何の用のおはすにか。うしろめたき事には侍らずやといふ。戸外の人は又何やらん言ひたり。新婦。さなり/\。おん詞はまことなり。おん身は手帳を忘れ置き給へり。さきに妹に持せて、麓《ふもと》なる宿屋まで遣りたれど、かしこにてはさる檀那は宿り給はずといひぬ。定めて山の上に宿り給ふならん。つとめて又持たせ遣らんとこそ思ひ侍りしなれ。手帳は現《げん》にこゝに在り。斯く云ひて、新婦《にひよめ》は抽箱《ひきだし》よりさきの手帳を取出せり。戸外の人は何やらん言へり。新婦は首を掉《ふ》りて、否々、門《かど》の口をばえひらき侍《はべ》らず、おん身のこゝに來給はんは宜《よろ》しからずと云ひ、起ちてかなたの窓を開きつ。手帳をわたさんとして差し伸べたる新婦の手をば、外より握りたりと覺しく、手帳ははたと音して窓の外に落ちたり。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]の頭は此響と共に窓の内に顯れたり。新婦は走りてこなたの窓のほとりに來つ。これより後我は明に二人の詞を辨ずることを得るに至りぬ。
ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]。さらば君はわが感謝のために君の手に接吻するをだに許し給はぬにや。物落しし人の拾ひ主に謝するは世の習ならずや。そが上に走りてこゝに來つれば、喉乾きて堪へ難し。我に一杯《ひとつき》の酒を飮ませ給ふとも、誰かはそを惡しき事といはん。何故に君は我がそこに入らんとするを拒《こば》み給ふぞ。新婦。否、かく夜ふけておん身と物言ひ交すだに影護《うしろめた》き事なり。疾《と》くおん身の手帳を取りて歸り給へ、我は窓を鎖すべきに。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]。我はおん身の手を握らでは歸らず。おん身のけふ我に惜みて、彼馬鹿者に與へ給ひし接吻を取り返さでは歸らず。新婦は周章の間に一聲の笑を洩せり。否々。君は人の與へざる所のものを奪はんとし給ふにや。君強ひて奪はんとし給はゞ、われまた誓ひて與へざるべしといふ。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]は哀れげなる聲していふやう。我等の相見るはこれを限なるを思ひ給へ。われは再び此地に來るものにあらず。さるを君は我が手を握らんといふをだに聽き納《い》れたまはず。我胸には君に言ふべき事さはなれど、君が手を握らんの願の外は、われ敢て口に出さじ。聖母《マドンナ》は我等に何とか教へ給ふぞ。人は兄弟姉妹の如く相愛せよとこそ宣給《のたま》へ。われはおん身の兄弟なり。我黄金をおん身と分ちて、おん身の艷《あで》やかなる姿を飾る料《かて》となさんとこそ願へ。貴き飾を身に着け給はば、おん身の美しさ幾倍なるべきぞ。おん身の友だちは皆おん身を羨むべし。されど我とおんみとの中をば世に一人として知るものなからん。斯く云ひも果てず、ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]は一躍して窓より入りぬ。新婦《にひよめ》は高く聖母の名を叫べり。
われは表の窓に走り寄りて、力を極めて其扉を打ちたり。硝子《ガラス》はから/\と鳴りたり。我は目に見えぬ威力に驅らるゝものゝ如く、走りて裏口に至り、得物《えもの》もがなと見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]す傍《かたへ》の、葡萄|架《だな》の横木引きちぎりつ。女はニコオロ[#「ニコオロ」に傍線]にやと叫べり。さなり、我なりと、われは假聲《つくりごゑ》して答へたり。室内《へやぬち》の燈消ゆると共に、ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]は窓より跳り出で、いち足出して逃げて行く。其外套は風に翻《ひるがへ》れり。ニコオロ[#「ニコオロ」に傍線]よ、いかにしておん身は歸りし、これも聖母の御惠《みめぐみ》にこそといひつゝ、女は窓に走り寄りぬ。その聲は猶|慄《わなゝ》けり。われは吃《ども》りて、恕《ゆる》し給へ君と叫びぬ。あなやと呼ぶ女の聲と共に、扉ははたと鎖され、われは茫然として獨り窓外に立てり。
暫しありて、我は新婦《にひよめ》の靜かに歩ゆみ、戸を開き、戸を閉ぢ、鑰《ぢやう》を下す響を聞き、今は心安しとおもひて、そと歸途に就きぬ。われは心中に無量の喜を覺えたり。かくてこそわれは晝間の接吻に報い得つるなれ。若し彼女主人にして豫《あらかじ》め守護の功を測り知りたらんには、渠《かれ》は猶一たび接吻することをも辭せざりしなるべし。
僧堂に歸りしは恰も晩餐の時なり。人々は我が外に出でしを知らざるさまなり。食卓に就きて程經ぬるに、ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]のみ來ざりければ、フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君は心を勞し、公子はあまたたび人を馳せて、その歸るを候《うかゞ》はせぬ。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]はやうやくにして來りぬ。漫歩《そゞろありき》して岐《みち》に迷ひ、農夫に教へられて纔《わづか》に歸ることを得つといふ。夫人その姿を見て、げにおん身の衣《きぬ》は綻《ほころ》びたりといへば、ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]手もてその破れたる處を摘《つま》み、この端の斷《ちぎ》れたるは棘《いばら》にかゝりて跡に殘りぬ、われは直ちに心附きぬれど、奈何《いかん》ともすること能はざりき、このあたりにて斯くまで道を失はんとは、流石《さすが》に思掛けざりき、目暮の景色を弄《もてあそ》ぶ中《うち》、俄に暗くなりしを見て、近道より歸らんとおもひしが事の原《もと》なりといふ。一座は此遊の可笑《をか》しき話柄《わへい》を得たりとて打ち興じ、杯を擧げて、此|迷失兒《まよひご》の健康を祝しつ。こゝの葡萄酒はいと旨きに、人々醉を帶び、歡を竭《つく》して分れぬ。
わが寢室に入りしとき、隣室なるジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]は上衣を脱ぎ襦袢《じゆばん》一つとなりて進み來り、いとさかしげに
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