ホ《こしかけ》あり。是れポムペイ[#「ポムペイ」に二重傍線]の士女の郊外に往反《ゆきかへり》するときしばらく憩ひし處なるべし。想ふに當時この榻《こしかけ》に坐するものは、碑碣のあなたなる林木郊野を見、往來織るが如き街道を見、又波靜なる入江を見つるならん、今は唯だ窓※[#「片+(扈の邑に代えて甫)」、第3水準1−87−69]《さういう》ある石屋《せきおく》の處々に立てるを望むのみ。屋《いへ》は地震の初に受けたりと覺しき許多《あまた》の創痕を留めて、その形|枯髑髏《されかうべ》の如く、窓は空しき眼※[#「穴/巣」、第4水準2−83−21]《がんさう》かと疑はる。間※[#二の字点、1−2−22]當時|普請《ふしん》の半ばなりし家ありて、彫りさしたる大理石塊、素燒の模型などその傍《かたはら》に横れり。
われ等は漸くにして市の外垣に到りぬ。これに登るに幅廣き石級あり。古劇場の觀棚《さじき》の如し。當面には細長き一條の町ありて通ず。熔巖の板を敷けること拿破里の街衢《がいく》と異なることなし。蓋《けだ》しこの板は遠く彼基督紀元七十九年の前にありて噴火せし時の遺物なるべし。今その面を見るに、深く車轍を印したればなり。家壁には時に戸主の姓氏を刻めるを見る。又|招牌《かんばん》の遺れるあり。偶々《たま/\》その一を讀めば、石目細工の家と題したり。
家裏《やぬち》を窺ふに、多くは小房なり。門扇上若くは仰塵《てんじやう》より光を採りたり。中庭の大さは大抵僅に一小花壇若くは噴水ある一水盤を容るゝに足り、柱廊ありてこれを繞《めぐ》れり。壁又|歩牀《ゆか》には石目もて方圓種々の飾文を作る。白青赤などの顏料もて畫ける壁を見るに、舞妓、神物の類猶頗る鮮明なり。博士とフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]とはこの美麗にして久しきに耐ふる顏料の性状を論ずと見えしが、いつかバヤルヂイ[#「バヤルヂイ」に傍線]が大著述の批評に言ひ及びて、身の何《いづれ》の處に在るかを忘るゝものゝ如くなりき。(バヤルヂイ[#「バヤルヂイ」に傍線]の著カタロオゴ、デリ、アンチイキイ、モヌメンチイ、デルコラノは大判紙十卷ありて千七百五十五年の刊行なり。)幸に我は平生多く書《ふみ》を讀まざりしかば、此物語に引き入れらるゝ虞《おそれ》なく、詩趣ゆたかなる四圍《あたり》の光景《ありさま》は、十分に我心胸に徹して、平生の苦辛はこれによりて全く排せられ畢《をはん》ぬ。
われ等はサルルスト[#「サルルスト」に傍線]が故宅の前に立てり。博士帽を脱して云ふやう。縱《たと》ひ靈魂は逸し去らんも、吾|豈《あに》その遺骸を拜せざらんやと。前壁には、ヂアナ[#「ヂアナ」に傍線]とアクテオン[#「アクテオン」に傍線]との大圖を畫けり。(アクテオン[#「アクテオン」に傍線]は、希臘の男神の名なり、女神ヂアナ[#「ヂアナ」に傍線]を垣間《かいま》見て、罰のために鹿に變ぜられ、畜《やしな》ふ所の群犬に噬《か》まる。)二個の「スフインクス」(女首獅身の石像)を脚としたる大理石の巨卓《おほづくゑ》あり。傳へいふ、初めこの皓潔《こうけつ》玉の如き卓を發掘せしとき、工夫は驚喜の餘、覺えず聲を放ちて叫びぬと。されど我を動すことこれより深かりしは、色褪せたる人骨と灰に印せる美しき婦人の乳房となりき。
われ等は廣こうぢを過ぎて、ユピテル[#「ユピテル」に傍線]の祠《ほこら》の前に至りぬ。日は白き大理石の柱を照せり。其|背後《うしろ》にはヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]の山あり。巓《いたゞき》よりは黒烟を吐き、半腹を流れ下る熔巖の上には濃き蒸氣|簇《むらが》れり。
われ等は劇場に入りて、磴級《とうきふ》をなせる石榻《せきたふ》に坐したり。舞臺を見るに、その柱の石障石扉、昔のまゝに殘りて、羅馬の俳優のこゝに演技せしは咋《きのふ》の如くぞおもはるゝ。されど今は音樂の響も聞えず、公衆の喝采に慣れたるロスチウス[#「ロスチウス」に傍線]が聲も聞えず。わが觀るところの演劇は、緑肥えたる葡萄圃《ぶだうばたけ》、行人|絡繹《らくえき》たるサレルノ[#「サレルノ」に二重傍線]街道、其背後の暗碧なる山脈等を道具立書割として、自ら悲壯劇の舞群《ホロス》となれるポムペイ[#「ポムペイ」に二重傍線]市の死の天使の威を歌へるなり。われは覿面《てきめん》に死の天使を見たり。その翼は黒き灰と流るゝ巖《いはほ》とにして、一たびこれを開張するときは、幾多の市村はこれがために埋めらるゝなり。
噴火山
熔巖は月あかりにて見るべきものぞとて、我等は暮に至りてヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]に登りぬ。レジナ[#「レジナ」に二重傍線]にて驢《うさぎうま》を雇ひ、葡萄圃、貧しげなる農家など見つゝ騎《の》り行くに、漸くにして草木の勢衰へ、はては片端《かたは》になりたる小灌木、半ば枯れたる草の莖もあらずなりぬ。夜はいと明《あか》けれど、強く寒き風は忽ち起りぬ。將《まさ》に沒せんとする日は熾《さかり》なる火の如く、天をば黄金色ならしめ、海をば藍碧色ならしめ、海の上なる群れる島嶼《たうしよ》をば淡青なる雲にまがはせたり。眞に是れ一の夢幻界なり。灣《いりえ》に沿へる拿破里の市《まち》は次第に暮色微茫の中に沒せり。眸《ひとみ》を放ちて遠く望めば、雪を戴けるアルピイ[#「アルピイ」に二重傍線]の山脈氷もて削り成せるが如し。
紅《くれなゐ》なる熔巖の流は、今や目睫《もくせふ》に迫り來りぬ。道絶ゆるところに、黒き熔巖もて掩《おほ》はれたる廣き面《おも》あり。驢馬は蹄《ひづめ》を下すごとに、先づ探りて而る後に踏めり。既にして一の隆起したる處に逢ふ。その状《さま》新に此熔巖の海に涌出せる孤島の如し。されど其草木は只だ丈低き灌木の疎《まばら》に生ぜるを見るのみ。この處に山人《やまびと》の草寮《こや》あり。兵卒數人火を圍みて聖涙酒を呑めり。(「ラクリメエ、クリスチイ」とて葡萄酒の名なり。)こは遊覽の客を護りて賊を防ぐものなりとぞ。われ等を望み見て身を起し、松明《まつ》を點じて導かんとす。劇《はげ》しき風に焔は横さまに吹き靡《なび》けられ、滅《き》えんと欲して僅に燃ゆ。博士は疲れたりとて草寮《こや》に留まりぬ。我等の往手は巖の間なる細徑にて、熔巖の塊の蹄に觸るゝもの多し。處々道の險しき谿《たに》に臨めるを見る。
既にして黒き灰もて盛り成したる山上の山ありて、我等の前に横はりぬ。我等は皆|徒立《かちだち》となりて、驢《うさぎうま》をば口とりの童にあづけおきぬ。兵卒は松明振り翳《かざ》して斜に道取りて進めり。灰は踝《くるぶし》を沒し又膝を沒す。石片又は熔巖の塊ありて、歩ごとに滾《ころが》り落つるが故に、縱《たて》に列びて登るに由なし。我等は雙脚に鉛を懸けたる如く、一歩を進みては又一歩を退き、只だ一つところに在るやうに覺えたり。兵卒は、巓近し、今一息に候と叫びて、我等を勵《はげま》したり。されど仰ぎ視れば山の高きこと始に異ならず。一時|許《ばかり》にして僅に巓に到りぬ。われは奇を好む心に驅られて、直に踵《くびす》を兵卒に接したれば、先づ足を此山の巓に着けたり。
巓は大なる平地にして、大小いろ/\なる熔巖の塊《かたまり》錯落として途に横《よこたは》る。平地の中央に圓錐形の灰の丘あり。是れ火坑の堤なり。火球の如き月は早く昇りて、此丘の上に懸れり。我等の來路に此月を見ざりしは、山のために遮られぬればなり。忽ちにして坑口黒烟を噴き、四邊闇夜の如く、山の核心と覺しき處に不斷の雷聲を聞く。地震ひ足危ければ、人々相|倚《よ》りて支持す。忽ち又千百の巨※[#「石+駮」、第3水準1−89−16]《きよはう》を放てる如き聲あり。一道の火柱直上して天を衝き、迸《ほとばし》り出でたる熱石は「ルビン」を嵌《は》めたる如き觀をなせり。されど此等の石は或は再び坑中に沒し、或は灰の丘に沿ひて顛《ころが》り下り、復た我等の頭上に落つることなし。われは心裡に神を念じて、屏息《へいそく》してこれを見たり。
兵卒は、客人《まらうど》達は山の機嫌好き日に來あはせ給ひぬとて、我等を揮《さしまね》きて進ましめたり。われは初めその何處に導くべきかを知らざりき。火を噴ける坑口は今近づくべきにあらねばなり。導者は灰の丘を左にして進まんとす。忽ち見る。我等の往手に火の海の横れるありて、身幹《みのたけ》數丈なる怪しき人影のその前にゆらめくを。これ我等に前だてる旅客の一群なり。我等は手足を動《うごか》して熔岩の塊を避けつゝ進めり。色|褪《あ》せたる月の光と松明《まつ》の光とは、岩の隈々《くま/″\》に濃き陰翳を形《かたちづく》りて、深谷の看《かん》をなせり。忽ち又例の雷聲を聞きて、火柱は再び立てり。手もて探りて漸く進むに、石土の熱きを覺ゆるに至りぬ。巖罅《がんか》よりは白き蒸氣|騰上《たうじやう》せり。既にして平滑なる地を見る。こは二日前に流れ出でたる熔岩なり。風に觸るゝ表層こそは黒く凝りたれ、底は猶紅火なり。この一帶の彼方には又常の石原ありて、一群の旅客はその上に立てり。導者は我等一行を引きて此|火殼《くわかく》を踐《ふ》ましめたるに、足跡|炙《あ》ぶるが如く、我等の靴の黒き地に赤き痕《あと》を印するさま、橋上の霜を踏むに似たり。處々に斷文ありて、底なる火を透し見るべし。我等は凝息《ぎやうそく》して行くほどに、一英人の導者と共に歸り來るに逢ひぬ。渠《かれ》、汝等の間に英人ありやと問ふに、われ、無しと答ふれば、一聲|畜生《マレデツトオ》と叫びて過ぎぬ。
我等は彼旅客の群に近づきて、これと同じく一大石の上に登りぬ。此石の前には新しき熔岩流れ下れり。譬へば金の熔爐より出づる如し。其幅は極めて闊《ひろ》し。蒸氣の此流を被へるものは火に映じて殷紅《あんこう》なり。四圍は暗黒にして、空氣には硫黄の氣滿ちたり。われは地底の雷聲と天半の火柱と此流とを見聞《みきゝ》して、心中の弱處病處の一時に滅盡するを覺えたり。われは胸前《むなさき》に合掌して、神よ、詩人も亦汝の預言者なり、その聲は寺裏に法を説く僧侶より大なるべし、我に力あらせ給へ、我心の清きを護り給へと念じたり。
われ等は歸途に就《つ》きたり。此時身邊なる熔岩の流に、爆然聲ありて、陷穽《かんせい》を生じ炎焔《ほのほ》を吐くを見き。されどわれは復《ま》た戰《をのゝ》き慄《ふる》ふことなかりき。一行は積灰の新に降れる雪の如きを蹴《け》て、且滑り且降るほどに、一時間の來路は十分間の去路となりて、何の勞苦をも覺えざりき。われもフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]も心に此遊の徒事ならざりしを喜びあへり。驢に乘りて草寮《こや》に至れば、博士は踞座して我等を待てり。促し立てゝ共に出づるに、風|斂《をさま》り月明かなり。拿破里《ナポリ》灣に沿ひて行けば、熔岩の赤き影と明月の青き影と、波面に二條の長蛇を跳らしむ。聞説《きくな》らく、昔はボツカチヨオ[#「ボツカチヨオ」に傍線]涙をヰルギリウス[#「ヰルギリウス」に傍線]の墳《つか》に灑《そゝ》ぎて、譽を天下に馳せたりとぞ。われ韮才《ひさい》、固《もと》よりこれに比すべきにあらねど、けふヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]の山の我詩思を養ひしは、未だ必ずしもむかし詩人の墳のボツカチヨオ[#「ボツカチヨオ」に傍線]の天才を發せしに似ずばあらず。
博士はわれ等を誘ひて其家にかへりぬ。われは前度の別をおもひて、サンタ[#「サンタ」に傍線]夫人との應對いかがあらんと氣遣ひしに、夫人の優しく打解けたるさまは、毫も疇昔《ちうせき》に異ならざりき。夫人はわが即興の手際を見んとて、こよひの登山を歌はせ、辭《ことば》を窮《きは》めて我才を讚めたり。
嚢家
サンタ[#「サンタ」に傍線]のわれに優しきことは昔に變らず。されど人なき處にてこれと相見んことの影護《うしろめ》たくて、若しフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]の共に往かざるときは、必ず人の先づ集《つど》ひたらん頃を待ちて、始ておとなふこととなしつ。現《げ》にあやしきものは人の心なり。曾て心にだに留《
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