竅sたてぎん》六百枚は定まりたる身のしろなり。そを六日間に拂ひ給はゞ、君は自由の身なるべく、さらずば君が身は、生きながらか、殺してか、我物とせではおかじ。こは此處の掟《おきて》なれば、君が紅顏も我丹心も、寛假《くわんか》の縁《えにし》とはならぬなるべし。六百枚なくば、我等の義兄弟となりて生きんとも、彼處《かしこ》なる枯井の底にて、相擁して永く眠れる人々の義兄弟となりて終らんとも、二つに一つと思はれよ。身のしろ求むる書をば、友達に寄せ給はんか、又彼歌女に寄せ給はんか。おん身の一撃|媒《なかだち》となりて、二人はその心を明しあひつれば、さばかりの報恩をば、喜びてなすなるべし。斯く語りつゝ、男は又から/\と笑ひて云ふ。廉《やす》き價なり。この宿の客人に、還錢《かんぢやう》のかく迄廉きことは、その例少からん。都よりの馬のしろ、六日の旅籠《はたご》を思ひ給へ。われ。我志をば既に述べたり。我はさる書をも作らざるべく、又君等が夥伴《なかま》にも入らざるべし。男。さて/\強情なる人かな。されどその強情は憎くはあらず。我|彈丸《たま》の汝が胸を貫かんまでも、その心をば讚めて進ずべし。命惜まぬ客人よ。生くといふには種々あり。少年の心は物に感じ易しといふに、吾黨がかく累《わずらひ》なく障《さはり》なき世渡するを見て、羨ましとは思はずや。そが上おん身は詩人にて、即興詩もて口を糊せんといふにあらずや。吾黨の自由|不羇《ふき》の境界《きやうがい》を見て心を動すことはなきか。客人試みに此境界を歌ひ給へ。題をば巖穴の間なる不撓《ふたう》の氣象とも曰ふべきならん。客人若しこれを歌はゞ、彼生活といひ性命といふものゝ、樂む可く愛す可きを説かざることを得ぬなるべし。その杯を傾けて、歌ひて我等に聽せ給へ。出來好くば六日の期を一日位は延ばすべしといふ。男は手をさし伸べて、壁上なる「キタルラ」を取りて我に授けつ。賊の群は立ちて我席を繞《めぐ》りたり。
 われはそを把《と》りて暫く首を傾けたり。課する所の題は巖穴山野にて、こは我が曾て經歴せざるところなり。前の夜こゝに來し時は、目を掩《おほ》はれたれば甲斐なし。昔見しところを言はゞ、羅馬のボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]、パムフイリ[#「パムフイリ」に傍線]の兩苑に些の松林ありしに過ぎず。まことの山とては、幼かりし程ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]が家の窓より望みしより外知らず。已むことなくば只だ一たび山を見き。ジエンツアノ[#「ジエンツアノ」に二重傍線]の花祭に往きし途すがらの事なり。ネミ[#「ネミ」に二重傍線]湖畔の高原を歩みしに、道は暗く靜けき森林の間を通じたり。彼祭はわが爲には悲き祭なりければ、湖畔の道にて花束つくりしことをさへ、今猶忘れでありしなり、景は心目に上り來れり。今かく物語する時間の半をだに費さずして、景は情を生じ、情は景を生ずるほどに、我は絃を撥《はじ》きたり。情景は言の葉となり、言の葉は波起り波伏す詩句となりぬ。且我が歌ひしところを聽け。深き湖あり。暗き林はそを環《めぐ》れり。湖の畔なる巖は聳《そばだ》ちて天を摩せんとす。こゝに暴鷲《あらわし》の巣あり。母鳥は雛等に教へて、穉《をさな》き翼を振はしめ、またその目を鋭くせんために、日輪を睨ましめき。扨《さて》母鳥の云ひけるやう。汝達は諸鳥の王なるぞ。目は利《と》く、拳は強し。いでや飛べ。飛びて母の側を去れ。我目は汝を送り、我情は彼の死に臨める大鵝《たいが》の簧舌《くわうぜつ》の如く汝が上を歌ふべし。その歌は不撓の氣力を題とせんといひき。雛等は巣立せり。一隻は翅《はね》を近き巖の頂に斂《をさ》めて、晴れたる空の日を凝矚《ぎようしよく》すること、其光のあらん限を吸ひ取らんと欲する如くなりき。一隻は高く虚空に翔《かけ》りて、大圈を畫し、林※[#「木+越」、第3水準1−86−11]《りんゑつ》沼澤を下瞰《かかん》するが如くなりき。岸に近き水面には緑樹の影を倒せるありて、その中央には碧空の光を※[#「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1−91−44]《ひた》すを見る。時に大魚の浮べるあり。その脊は覆《くつがへ》りたる舟の如し。忽ち彼雛鷲は電《いなづま》の撃つ勢もて、さと卸《おろ》し來つ。刃《やいば》の如き利爪《とづめ》は魚の背を攫《つか》みき。母鳥は喜、色に形《あらは》れたり。然るに鳥と魚とは力|相若《あひし》くものなりければ、鳥は魚を擧ぐること能はず、魚は鳥を沈むること能はず、打ち込みたる爪の深かりしために、これを拔かんとするも、亦意の如くならず。こゝに生死の爭は始まりぬ。今まで靜なりける湖水の面は、これがために搖り動され、大圈をなせる波は相重りて岸に迫れり。既にして波上の鳥と波底の魚と、一齊に鎭《しづ》まり、鷲の翼の水面《みのも》を掩《おほ》ふこと蓮葉《はちすは》の如くなりき。忽ち隻翼は又|聳《そばだ》ち起り、竹を割《さ》く如き聲と共に、一翼はひたと水に着き、一翼は劇《はげ》しく水を鞭《う》ち沫《しぶき》を飛ばすと見る間に、鳥も魚も沈みて痕なくなりぬ。母鳥は悲鳴して、巖角なる一隻の雛を顧みるに、こもいつか在らずなりて、首を仰いで遠く望めば、只だ一黒斑の日に向ひて飛ぶを見き。母鳥は悲を轉じて喜となしたり。その胸は高く躍りて、その聲は折るれども撓《たわ》まぬ力を歌ひぬ。我歌はこゝに終り、喝采の聲は座に滿ちぬ。獨り我は※[#「目+寅」、第4水準2−82−14]《またゝき》きもせで、龕《がん》の前なる老女をまもり居たり。そは我が歌ひて半に至りし時、老女の絲繰る手やうやく緩く、はては全く歇《や》みて、暗き瞳の光は我面を穿《うが》つ如く、こなたに注がれたればなり。又我が能く少時の夢を喚《よ》び起して、この詩中に入るゝことの、かくまで細かなることを得しは、この老女の振舞|與《あづか》りて力ありければなり。
 媼《おうな》は忽ち身を起し、健《すこや》かなる歩みざまして我前に來て云ふやう。能くも歌ひて、身のしろを贏《か》ち得つるよ。吭《のど》の響はやがて黄金《こがね》の響ぞ。鳥と魚との水底に沈みし時にこそ、この姥《うば》は汝が星の躔《やど》るところを見つれ。鷲よ。いで日に向ひて飛べ。老いたる母は巣にありて、喜の目もてそを見送らんとす。汝が翼をば、誰にも折らせじといふ。我に勸めて歌はせし男|恭《うや/\》しく媼の前に※[#「石+盍」、第4水準2−82−51]頭《ぬかづ》きて、さてはフルヰア[#「フルヰア」に傍線]の君は此わかうどを見給ひしことあるか、又その歌を聞き給ひしことあるかと問ひぬ。媼。そは汝の知らぬ事なり。われは早く幸運の兒の身と光と眼の星とを見き。兒はむかし花の環を作りぬ。後又愈※[#二の字点、1−2−22]美しき花の環を作るならん。その臂《ひぢ》を縛《いまし》むべきことかは。六日が程は巣にあれかし。脊に爪打ち込みしにはあらず。六日立たば、汝この雛を放ち遣りて、日の邊へ飛ばしめよ。斯くつぶやきつゝ、媼は壁の前なる筐《はこ》を探りて、紙と筆とを取り出でつ。あな、やくなし。墨は巖の如くなりぬ。コスモ[#「コスモ」に傍線]よ。人の上のみにはあらず。汝が腕の血を呉れずやといふ。コスモ[#「コスモ」に傍線]と喚《よ》ばれし彼男は、一語をも出さで、刀を拔きて淺くその膚を截《き》りたり。媼はその血に筆を染めて我にわたし、「往《ゆく》拿破里《ナポリ》」と書して名を署せしめて云ふ。好し好し、法皇の封傳《てがた》に劣らぬものぞとて、懷にをさめつ。傍なる一人の男、その紙何の用にか立つべきとつぶやきしに、媼目を見張りて、蛆《うぢ》のもの言はんとするにや、大いなる足の蹂躙《ふみにじ》らんを避けよといふ。コスモ[#「コスモ」に傍線]は首《かうべ》を低《た》れて不敢《いかでか》不敢《いかでか》汝の命は神璽《しんじ》靈寶にも代へじといひき。人々と媼との物語はこれにて止み、卓を圍める一座の興趣は漸くに加はりて、瓶《へい》は手より手にと忙はしく遣り取りせらるゝことゝなりぬ。さて食を供するに至りて、賊の中にはわが肩を敲きて、皿に肉塊を盛りて呉るゝもありき。唯だ彼媼は故《もと》の如く、室隅に坐して、飮食の事には與《あづか》らざりき。賊の一人は火をその坐のめぐりに添へて、大母よ、汝は凍《こゞ》ゆるならんといひき。我は媼の詞につきて熟※[#二の字点、1−2−22]《つら/\》おもふに、むかし母とマリウチア[#「マリウチア」に傍線]とに伴はれて、ネミ[#「ネミ」に二重傍線]湖畔に花束作りし時、わが上を占ひしことあるは此媼なりしなるべし。我運命の此媼の手中にありと見ゆること、今更にあやしくこそ覺えらるれ。媼はわれに往拿破里と書かしめき。こは固《もと》より我が願ふところなり。されど封傳《てがた》なくして、いかにして拿破里には往かるべきぞ。又|縱令《よしや》かしこに往き着かんも、識る人とては一人だに無き身の、誰に頼りてか活《なりはひ》をなさん。前にはわれ一たび即興詩もて世を渡らんとおもひき。されど羅馬にて人を傷けたりと知られんことおそろしければ、舞臺に出づべきこゝろもなし。されど方言をばよく知りたり、聖母のわれを見放ち給ふことだにあらずば、ともかくもして身を立てんと、強ひて安堵の念を起しつ。あはれ、あやしきものは人のこゝろにもあるかな。この時アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が我を卻《しりぞ》けて人に從ひし悲痛は、却りて我心を抑し鎭むる媒《なかだち》となりぬ。我がこの時の心を物に譬へて言はゞ、商人のおのが舟の沈みし後、身一つを三版《はぶね》に助け載せられて、知らぬ島根に漕ぎゆかるゝが如しといふべき歟《か》。
 かくて一日二日と過ぎ行きぬ。新に來り加はる人もあり、又もとより居たる人の去りていづくにか往けるもあり。ある日彼媼さへ、ひねもす出でゝ歸らざりしかば、我は賊の一人とこの山寨《さんさい》の留守することゝなりぬ。この男は年二十の上を一つばかりも超えたるならん。顏は卑しげなるものから、美しき髮長く肩に掛かり、その目《ま》なざしには、常にいと憂はしげなる色見えて、をり/\は又手負ひたる獸などの如きおそろしき氣色《けしき》現るゝことあり。我と此男とは暫し對《むか》ひ坐して語を交ふることなく、男は手を額に加へて物案ずるさまなりしが、忽ち頭を擧げて我面をまもりたり。

   花ぬすびと

 若者はふと思ひ付きたる如く。おん身は物讀むことを能くし給ふならん。此卷の中なる祈誓の歌一つ讀みて聞せ給へとて、懷より小き讚美歌集一卷取出でたり。われいと易き程の事なりとて、讀み初めしに、若者の黒き瞳子《ひとみ》には、信心の色いと深く映りぬ。暫しありて若者我手を握りて云ふやう。いかなれば汝は復た此山を出でんとするか。人情の詐《いつはり》多きは、山里も都大路《みやこおほぢ》も殊なることなけれど、山里は爽かに涼しき風吹きて、住む人の少きこそめでたけれ。汝はアリチア[#「アリチア」に二重傍線]の婚禮とサヱルリ[#「サヱルリ」に傍線]侯との昔がたりを知るならん。壻《むこ》は卑しき農夫なりき。婦《よめ》は貧しき家の子ながら、美しき少女《をとめ》なりき。侯爵の殿は婚禮の筵《むしろ》にて新婦が踊の相手となり、宵の間にしばし花園に出でよと誘ひ給へり。壻この約を婦に聞きて、婦の衣裳を纏ひ、婦の面紗《おもぎぬ》を被りて出でぬ。好くこそ來つれと引き寄せ給ふ殿の胸には、匕首《あひくち》の刃深く刺されぬ。これは昔がたりなり。われも此の如き貴人を知りたり。そは某《なにがし》といふ伯爵の殿なりき。又此の如き壻を知りたり。唯だ婦は此の如く打明けて物言ふ性《さが》ならねば、新枕《にひまくら》の樂しさを殿に讓りて、おのれは新佛《しんぼとけ》の通夜することゝなりぬ。刃の詐《いつはり》多き胸を貫きし時、膚《はだへ》は雪の如くかゞやきぬとぞ語りし。
 わが心中には畏怖と憐愍と交※[#二の字点、1−2−22]《こも/″\》起りぬ。われは詞はなくて、若者の面を打まもりしに、若者又云ふやう。彼も一時なり。此も一時なり。われを女の肌知らぬものと思ひ給ふな。英吉
前へ 次へ
全68ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング