gレヘム」に二重傍線]の搖籃の上に照りし星にもたとへつべきさまなり。(原註。寺院もそのめぐりなる家屋も、皆石もて築き立てたるものなれば、この盤中の火は松脂の盡くるまで燃ゆれども、火虞《くわぐ》あるべきやうなし。)群衆の歡び呼ぶ聲はいよ/\盛になりぬ。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]この活劇を眺めたるが、遽《にはか》に我に向ひていふやう。かの大穹窿の上なる十字架に火皿を結び付くる役こそおそろしけれ。おもひ遣るに身の毛いよ竪《た》つ心地す。われ。げに埃及《エヂプト》の尖塔にも劣らぬ高さなり。かしこに攀《よ》ぢしむるには膽《きも》だましひ世の常ならぬ役夫を選むことにて、預《あらかじ》め法皇の手より膏油の禮を受くと聞けり。姫。さてはひと時の美觀のために、人の命をさへ賭《と》するなりしか。われ。これも神徳をかゞやかさんとての業なり。世には卑しき限の事に性命を危くする人さへ少からず。かく語るうち、車の列は動きはじめたり。人々はモンテ、ピンチヨオ[#「モンテ、ピンチヨオ」に二重傍線]の頂にゆきて、遙かにかゞやく御寺と其光を浴《あ》むる市とを見んとす。われ重ねて。御寺に光を放たせて、都の上に照りわたらしむるは、いとめでたき意匠にて、コルレジヨオ[#「コルレジヨオ」に傍線]が不死の夜の傑作も、これよりや落想しつるとおもはる。姫。さし出《で》がましけれど、そのおん説は時代たがへり。彼圖は御寺に先だちて成りたり。作者は空《くう》に憑《よ》りて想ひ得しなるべく、又まことに空に憑りて想ひ得たりとせんかた、藍本《らんぽん》ありとせんよりめでたからん。モンテ、ピンチヨオ[#「モンテ、ピンチヨオ」に二重傍線]は餘りに雜※[#「二点しんにょう+鰥のつくり」、第4水準2−89−93]《ざつたふ》すべければ、やゝ遠きモンテ、マリヨ[#「モンテ、マリヨ」に二重傍線]へ往かばや。こゝより市門まではいと近ければといふ。われは馭者に命じて、柱廊の背後を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]らしめ、幾ほどもなく市外に出でたり。丘の半腹なる酒店の前に車を停めて見るに、穹窿の火の美しさ、前に見つるとはまた趣を殊にして、正面の簷《のき》こそは隱れたれ、星を聯《つら》ねたる火輪の光の海に漂《たゞよ》へるかとおもはる。この景色は四邊《あたり》のいと暗くして、大空なるまことの星の白かねの色をなして、高く隔たりたる處に散布せるによりて、いよ/\その美觀を添へ、人をして自然の大なるすら羅馬の蘇生祭には歩を讓りたるを感ぜしむ。鐘の響、樂の聲はこゝまでも聞えたり。
われは車を下りて、些の稍事《せうじ》を買はゞやと酒店の中に入りぬ。店の前には狹き廊ありて、小龕《せうがん》に聖母を崇《いつ》きまつり、さゝやかなる燈を懸けたり。わが店を出でんとて彼龕の前に來ぬるとき、忽ちベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]が吾前に立ち塞がりたるを見き。その面の色は、むかし「ジエスヰタ」派の學校のこゝろみの日に、桂冠を受け戴きしをりに殊ならず。眼は熱を病める如くかゞやけり。物狂ほしく力を籠《こ》めて我|臂《ひぢ》を握り、あやしく抑へ鎭《しづ》めたる聲して、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]、われは卑しき兇行者たらんを嫌へり、然らずば直ちに此劍もて汝が僞多き胸を刺すならん、汝は臆病ものなれば辭《いな》まむも知れねど、われは強ひて潔《いさぎよ》き決鬪を汝に求む、共に來れといふ。われは把《と》られたる臂を引き放さんとすまひつゝ、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]、物にや狂へると問ふに、友は焦燥《いらだ》つ聲を抑へて、叫ばんとならば叫べ、男らしく立ち向ふ心なくば、人をも呼べ、この兩腕の縛らるゝ迄には、汝が息の根とめでは置かじ、兵《えもの》はこゝにあり、我に恥ある殺人罪を犯させじとおもはゞ疾く來れといひつゝ、拳銃一つ我手にわたし、われを廊の外に拉《ひ》き行かんとす。われは遞與《わた》されたる拳銃を持ちながら、猶身を脱せんとして爭へり。友。彼君は淺はかにも汝に靡《なび》きしならん。汝は誇らしくも、そを我に、そを羅馬の民に示さんとす。われを出し拔きしは猶忍ぶべし。いかなれば我に弔辭《くやみ》めきたる書を贈りて、重ねて我を辱めたる。われ。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]、そは皆病める人の詞なり。先づその手を弛《ゆる》めずや。われは力を極めて友の體を撥《は》ね退けたり。
その時われは銃聲の耳邊に轟くを聞きたり。我右臂には衝動を感じたり。烟は廊道《わたどのみち》に滿ちたり。われは又叫ぶに似て叫ぶにあらざる一種の氣息を聞きたり。この氣息の響は我耳を襲ふよりは寧ろ我心を襲ひき。發したるは我手中の銃にして、黒く數石を染めたる血に塗《まみ》れて我前に横れるは我友なり。われは喪心者の如く凝立して、拘攣《こうれん》せる五指の間に牢《かた》く拳銃を攫《つか》みたり。
わが此不慮此不幸の全範圍を感ぜしは、酒店の人の罵り噪《さわ》ぎつゝ走り寄りアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]と媼との我前に來るを見し時なりき。わがベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]と叫びて、その躯《からだ》に抱き付かんとするに先だちて、姫は早くもその傍に跪き、鮮血湧き出づる創口を押へたり。姫はかく我友をいたはりつゝ、血の色全く失《う》せたる面を擧げて、我を凝視せり。媼は我臂を搖り動かして、疾《と》く此場をと呼べり。
われは胸裂くるが如き苦痛を覺えき。われは叫び出せり。思ひ掛けぬ怪我なり。殺さんと欲せしは他《かれ》なり。銃は他の我にわたしゝなり。われは身を脱せんとして撥條《はつでう》に觸れたり。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]聞き給へ。我等二人は命に懸けて君を慕ひしなり。君がために血を流さんことは、われも厭はざるべきこと、我友と同じ。われはおん身が一言を聞きて去らん。おん身は我友を愛し給ひしか、我を愛し給ひしか。
友の介抱に餘念なき姫は、詞のあやもしどろに、疾く往き給へといひて、手を揮《ふ》りたり。姫は往き給へと繰反したり。われは心もそらに再び、友なりしか我なりしかと叫びたり。
その時われはアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が友の上に俯して唇をその※[#「桑+頁」、第3水準1−94−2]《ひたひ》に觸るゝを見、その聲を呑みて微かに泣くを聞きたり。
次第に集りたる衆人の中より、忽ち邏卒々々《らそつ/\》と呼ぶ聲を聞けり。われは目に見えぬ幾條の腕もて拉《ひ》き去らるゝ心地して、此場を遁《のが》れたり。
基督の徒
愛せられしは友なり。この一條の毒箭《どくや》は我渾身の血を濁して、人を殺せり友を殺せりといふ悔悟の情の頭を擡《もた》ぐるをさへ妨げんとす。灌木雜草を踏みしだき、棘《いばら》に面を傷《きずつけ》られ、梢に袖を裂かれつゝも、幾畝の葡萄畠を限れる低き石垣を乘り越え乘り越え、指すかたをも分かでモンテ、マリヨ[#「モンテ、マリヨ」に二重傍線]の丘を走り下るに、聖ピエトロ[#「ピエトロ」に傍線]の御寺の火は、昔カイン[#「カイン」に傍線]の奔《はし》りしとき、同胞の躯《からだ》を供へたる贄卓《にへづくゑ》の火のゆくてを照しゝ如くなり。(譯者云。カイン[#「カイン」に傍線]は亞當《アダム》が第一の子にして、弟を殺して神に供へき。)この間幾時をか經たる、知らず。わが足を駐《とゞ》めしは、黄なるテヱエル[#「テヱエル」に二重傍線]の流の前を遮《さへぎ》るを見し時なりき。羅馬より下、地中海の荒波寄するあたりまで、この流には橋もなし、また索《もと》むとも舟もあらざるべし。この時我は我胸を噬《か》む卑怯の蛆《うじ》の兩斷せらるゝを覺えしが、そは一瞬の間の事にて、蛆は忽《たちまち》又|蘇《よみがへ》りたり。われは復《ま》たいかなる決斷をもなすこと能はざりき。
われはふと首《かうべ》を囘《めぐ》らしてあたりを見しに、我を距ること數歩の處に、故墳の址あり。むかしドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]が許に養はれし時、往きて遊びし冢《つか》に比ぶれば、大さは倍して荒れたることも一入《ひとしほ》なり。頽《くづ》れ墮《お》ちたるついぢの石に、三頭の馬を繋ぎたるが、皆おの/\顋下《さいか》に弔《つ》りたる一束の芻《まぐさ》を噛めり。
墓門より下ること二三級なる窪みに、燃え殘りたる焚火を圍める三個の人物あり。その火影の早く我目に映らざりしにても、我が慌てたるを知るに足るべし。火の左右に身を横《よこた》へたる二人は、逞《たく》ましげに肥えたる農夫なるが、毛を表にしたる羊の裘《かはごろも》を纏ひ、太き長靴を穿き、聖母の圖を貼《つ》けたる尖帽を戴き、短き烟管《きせる》を銜《ふく》みて對《むか》ひあへり。第三個は鼠色の大外套にくるまり、帽をまぶかに被りてついぢに靠《よ》りかゝりたるが、その身材《みのたけ》はやゝ小く、瓶《へい》を口にあてゝ酒飮み居たり。
わが渠等《かれら》を認めしとき、渠等も亦我を認めき。肥えたる二人は齊《ひと》しく銃を操《と》りて立ち上り[#「立ち上り」は底本では「立り上り」]たり。客人は何の用ありてこゝに來しぞ。われ。舟をたづねて河をこさんとす。三人は目を合せたり。甲。むづかしきたづねものかな。挈《さ》げ持ちて旅するものは知らず。こゝ等には舟も筏《いかだ》もなし。乙。客人は路にや迷ひ給ひし。こゝは物騷なる土地なり。デ・チエザアリ[#「デ・チエザアリ」に傍線]が夥伴《なかま》は遠き處まで根を張れば、法皇はいかに鋤《すき》を揮《ふ》り給ふとも、御腕の痛むのみなり。甲。客人はなどて何の器械《えもの》をも持ち給はぬ。見られよ、この銃は三連發なり。爲損《しそん》じたるときの用心には腰なる拳銃あり。丙。この小刀《こがたな》も馬鹿にはならぬ貨物《しろもの》なり。(かの身材小さき男は冰《こほり》の如き短劍を拔き出だして手に持ちたり。)乙。早く※[#「革+室」、67−下段−23]《さや》に納めよ。年若き客人は刃物は嫌ひなるべし。客人、われ等に逢ひ給ひしは爲合《しあは》せなり。若し惡棍《わるもの》などに逢ひ給はゞ、素裸にせられ給はん。金あらば我等にあづけ給へ。
われは今三人の何者なるかを知りたり。我五官は鈍りて、我性命は價なきものとなりぬ。諸君よ、わが持てる限の物をば、悉く贈るべし、されどおん身等を※[#「厭/食」、第4水準2−92−73]《あ》かしむるに足らざるこそ氣の毒なれと答へて、われは進寄りつゝ、手を我|衣兜《かくし》にさし籠《こ》みたり。われは兜兒《かくし》の中に猶|盾銀《たてぎん》二つありしを記したり。而るに我手に觸れたるは、重みある財布なりき。抽《ひ》き出して見れば、手組《てあみ》の女ものなるが、その色は曾てアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が媼の手にありしものに似たり。落人《おちうど》の盤纏《ろよう》にとて、危急の折に心づけたる、彼媼の心根こそやさしけれ。三人ひとしくさし伸ぶる手を待たで、われは財布の底を掴みて振ひしに、焚火に近き※[#「匚<扁」、第4水準2−3−48]石《ひらいし》の上に、こがねしろかね散り布けり。眞物《ほんもの》ぞと呼びつゝ、人々拾ひ取りて勿體なき事かな、盜人などに取られ給はゞいかにし給ふといふ。われ。貨物《しろもの》はそれ丈なり。疾《と》く我命を取り給へ。生甲斐なき身なれば毫《すこ》しも惜しとはおもはず。甲。思ひも寄らぬ事なり。我等はロツカ・デル・パアパ[#「ロツカ・デル・パアパ」に二重傍線]に住める正直なる百姓仲間なり。同じ教の人を敬ふ基督の徒なり。酒少し殘りたり。これを飮みて、かく怪しき旅し給ふ事のもとを明し給へ。われ。そはわが祕事《ひめごと》なり。かく答へて我は彼瓶を受け、燥《かわ》きたる咽を潤したり。
三人は何事をかさゝやきあひしが、小男は嘲《あざ》み笑ふ如き面持して我に向ひ、煖《あたゝか》き夕のかはりに寒き夜をも忍び給へといひて立ちぬ。渠《かれ》は驅歩《かけあし》の蹄の音をカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の廣野に響かせて去りぬ。甲。いざ客人、船を待ち給はんは望なき事な
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