ッり。我は姫に我肘に倚《よ》らんことを勸むる膽《たん》なかりき。されど表口の戸に近づきて、人の籠《こ》み合ふこと甚しかりしとき、姫は手を我肘に懸けたり。我脈には火の循《めぐ》り行くを覺えき。車をば直ちに見出だしつ。わが暇を告げんとせしとき、姫今は精進《せじみ》の時なれば何もあらねど、夕餉《ゆふげ》參らすべければ來まさずやと案内したるに、媼《おうな》は快手《てばや》くおのれが座の向ひなる榻《こしかけ》に外套、肩掛などあるを片付け、こゝに場所あり、いざ乘り給へと、我手を把《と》りぬ。共に車に載せんといひしならぬを、媼の耳|疎《うと》くしてかく聞き誤りたるなれば、姫ははしたなくや思ひけん、顏さと赧《あか》めたり。されど我は思慮する遑《いとま》もあらで乘り遷《うつ》り、御者《ぎよしや》も亦早く車を驅りぬ。
膳は豐なるにはあらねど、一として王侯の口に上《のぼ》すとも好かるべき贅澤品ならぬはなし。姫はフイレンチエ[#「フイレンチエ」に二重傍線]にての事細かに語りて、さて精進日の羅馬はいかなりしと問ひぬ。こは我がためにはあからさまに答ふべくもあらぬ問なりき。
われ。土曜日には猶太教徒の洗禮あるべし。君も往きて觀給ふべきか。此詞は料《はか》らず我口より出でしが、われは忽ち彼媼の側にあるを思ひ出だして、氣遣はしげにかなたを見き。姫。否、心に掛け給ふな。御身の詞は聞えざりき。されど聞ゆとも惡しく聞くべうもあらず。唯だ彼人の往かんは妥《おだやか》ならねば、我もえ往かざるべし。そが上コンスタンチヌス[#「コンスタンチヌス」に傍線]の寺なる彼儀式は固より餘り愛《め》でたからぬ事なり。(この儀式は歳ごとに基督再生祭に先だつこと一日にして行へり。猶太教徒若くは囘々《フイフイ》教徒|數人《すにん》をして加特力《カトリコオ》教に歸依《きえ》せしめ、洗禮を行ふなり。羅馬年中行事に「シイ、アフ、イル、バツテシイモ、ヂイ、エブレイ、エ、ツルキイ」と記せり。)僧侶は異教の人の歸依せるをもて正法の功力《くりき》の所爲となし、看る人に誇れども、その異教の人のまことに心より宗旨を改むるは稀なり。われもをさなき時一たび往きて觀しことあり。その折の厭ふべき摸樣は今に至るまで忘られず。拉《ひ》き來りしは六つ七つばかりの猶太人の童なりき。櫛の痕なき頭髮の蓬々たるに、寺の贈なる麗しき素絹の上衣を纏へり。靴と韈《くつした》とは汚れ裂けたるまゝなり。後に跟《つ》きて來たるは同じさまに汚れたる衣着たる父母なりき。この父母はおのれ等の信ぜざる後世《ごせ》のために、その一人の童を賣りしなるべし。われ。君はをさなき時この羅馬にありてそを見きとのたまふか。姫。然なり。されど我は羅馬のものにはあらず。われ。我は始て君が歌を聽きしとき、直ちに君のむかし識りたる人なることを想ひき。そを何故とも言ひ難けれど、この念は今も猶|失《う》することなし。若しわれ等|輪※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]《りんね》應報の教を信ぜば、われも君も前生は小鳥にて、おなじ梢に飛びかひぬともいひつべし。君にはさる記念なしや。何處にてか我を見しことありとはおぼさずや。姫は我と目を見あはせて、絶てさる事なしと答へき。われ詞を繼ぎて。初めわれ君は穉きときより西班牙《スパニア》に居給ひぬと思ひしに、今のおん詞にては羅馬にも居ましゝなり。我惑はいよ/\深くなりぬ。君既にをさなくして此都に居給ひきといへば、若しこゝの稚き子等と共に、「アラチエリ」の寺にて説教のまねし給ひしことあらずや。姫。あり/\。まことにさやうなる事|侍《はべ》りき。さてはかの折人々の目に留まりし童はアントニオ[#「アントニオ」に傍線]、おん身なりしか。われ。いかにも初め目に留まりしは我なりき。されど勝をば君に讓りしなり。姫はげに思ひも掛けぬ事かなと、我兩手を把《と》りて我面を見るに、媼さへその氣色《けしき》の常ならぬを訝《いぶか》りて、椅子をいざらせ、我等が方をうちまもりぬ。姫は珍らしき再會の顛末《もとすゑ》を媼に説き聞《きか》せつ。われ。我母もその外の人々も暫くは君が上をのみ物語りぬ。その姿のやさしさ、その聲の軟さをば、穉き我心にさへ妬《ねた》ましきやうに覺えき。姫。その時君は金《かね》の控鈕《ボタン》附きたる短き上衣を着たまひしこと今も忘れず。その衣をめづらしと見しゆゑ、久しく記憶に殘れるなるべし。我。君は又胸の上に美しき赤き鈕《ひも》を垂れ給ひぬ。されど最も我目に留まりしはそれにはあらず。君が目、君が黒髮なりき。人となり給へる今も、その俤《おもかげ》は明に殘れり。始て君がヂド[#「ヂド」に傍線]に扮し給へるを見しとき、われは直ちにこの事をベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]に語りぬ。さるをベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]はそを我迷ぞといひ消して、却りておのれが早く君を見きと覺ゆる由を語りぬ。姫、そは又いかにしてと問ひしが、その聲うち顫ふ如くなりき。われ。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]が君を見きといふは、いたく變りたる境界なり。惡しくな聞き給ひそ。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]も後に誤れることを覺りぬ。君が髮の色濃きなど、人にしか思はるゝ端となりしなるべし。君は、君はわが加特力教の民にあらず、されば「アラチエリ」の寺にて説教のまねし給ふ筈なしとの事なりき。姫は媼の方を指ざして、さては我友とおなじ教の民ぞといひしなるべしといふ。われは直にその手を取りて、わが詞のなめしきを咎め給ふなと謝したり。姫微笑みて、君が友の我を猶太少女とおもひきとて、われ爭《いかで》でか心に掛くべき、君は可笑しき人かなといひぬ。この話は我等の交を一と際深くしたるやうなりき。わが日頃の憂さは悉く散じたり。さてわが再び見じとの決心は、生憎《あやにく》にまた悉く消え失せたり。
姫はふと基督再生祭前のこの頃閉館中なる羅馬の畫廊の事を思ひ出でゝ、かゝる時好き傳《つて》を得て往き看《み》ば、いと面白かるべしといふに、姫の願としいへば何事をも協へんとおもふわれ、幸にボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]の館の管守、門番など皆識りたれば、そは容易《たやす》き事なりとて、あくる朝姫と媼とを伴ひ往かんことを約しつ。かの館は羅馬の畫廊のうちにて最も備れる一つなり。フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君の穉《をさな》き我を伴ひ往き給ひしはかしこなれば、アルバニ[#「アルバニ」に傍線]が畫の羽ある童は皆わが年ごろの相識なり。
靜なる我室に歸りて、つら/\物を思ふに、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]はまことに彼君を戀ふるに非ず。卑しき色慾を知りて、高き愛情を解せざる男の心と、深けれども能く澹泊《たんぱく》に、大いなれども能く抑遜《よくそん》せる我心とは、日を同じくして語るべからず。さきの日の物語の憎かりしことよ。彼はたゞ驕慢《けうまん》なり。彼はたゞ放縱なり。かくて飽くまで我を傷けたり。そはアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]の我に優しきを妬《ねた》みてなるべし。初め我を紹介せしは、いかにも彼男なりき。されど今その心を推《すゐ》すれば、好意とはおもはれず。おのが風采態度のすぐれたるを彼君に見するとき、その側に世馴れぬ我を居らせて反映せしめんためにはあらずや。さるを我歌我詩は端《はし》なく彼君の心にかなひぬ。妬の心はこれより萌《きざ》せるならん。さて我を又姫に逢はせじとて、かくは我を脅しゝなるべし。幸にわれ好き機會を得て、今は姫との交いと深くなりぬ。姫は我を憐めり。加之《しかのみなら》ず姫は我戀を知りたり。かく思ひつゞけつゝ、我は枕に接吻せり。さるにても口惜しきは、わが意氣地なき性質なり。いかなれば我は先の日直ちに彼の無禮を責めざりしぞ。かの詞にはかく答ふべかりしなり。かの辱《はづかしめ》をばかく雪《そゝ》ぐべかりしなり。我血は湧き上りたり。無上の快樂に無比の慙恨打ち雜りて、我は睡ること能はざりしが、曉近くおもひの外に妥《おだやか》なる夢を結びぬ。
翌朝は夙《はや》く起き、管守を訪ひて預《あらかじ》めことわりおき、さて姫と媼とを急がせつゝ共にボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]の館に往きぬ。
畫廊
畫廊はわが穉かりしとき、惠深き貴婦人の我を伴ひ往きて、おろかなる問、いまだしき感の我口より出で我言に發するごとに、面白しとて嬉《たのし》み笑ひ給ひしところにして、又わが獨り入りて遊び暮らしゝところなれば、今アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]を導き往くことゝなりたる我胸には、言ひ知らず怪しき情漲り起れり。既に入りて畫を看れば、幅《ふく》ごとに舊知なるごとく思はる。されど姫は却りてこれを知ること我より深かりき。姫は生れながらの官能に養ひ得たる鑒識《かんしき》をさへ具へたれば、その妙處として指し示すところは悉く我を服せしめ、我にその神會《しんゑ》の尋常に非ざるを歎ぜしめたり。
姫はジエラルドオ・デル・ノツチイ[#「ジエラルドオ・デル・ノツチイ」に傍線]の名ある作なるロオト[#「ロオト」に傍線](ソドム[#「ソドム」に二重傍線]に住みしハラン[#「ハラン」に傍線]の子)とその女兒との圖の前に立てり。われはをゝしき父の面、これに酒を勸むる樂しげなる少女の姿、暗く繁りあひたる木立のあなたに見ゆる夕映の空などめでたしと稱へしに、姫我ことばを遮《さへぎ》りて、げに/\奇なる才激せる情もて畫けるものと覺し、作者の筆の傅色《ふしよく》表情の一面は寔《まこと》に貴むべし、さるを此の如き題(ロオト[#「ロオト」に傍線]は其女子と通じたり)を選みしこそ心得られね、畫にも禮儀あり、品性あらんは我がつねに望む所なり、コルレジヨオ[#「コルレジヨオ」に傍線]がダナエ[#「ダナエ」に傍線]なども、己れは人の愛《め》づらんやうには愛でず、少女(ダナエ[#「ダナエ」に傍線]を謂ふ、希臘諸神の祖なるチエウス[#「チエウス」に傍線]黄金の雨となりて遘《ま》き給ひ、ペルセウス[#「ペルセウス」に傍線]を生ませ給ふ)の貌はいかにも美しく、臥床《ふしど》の上にて黄金掻き集むる羽ある童の形もいと神々しけれど、その事餘りにみだりがはしくして、興さむる心地す、ラフアエロ[#「ラフアエロ」に傍線]の大なるはこゝにあり、わが知れる限は、その採るところの題、毎《つね》に高雅にして些《いさゝか》の穢《けが》れだになし、かくてこそめでたき聖母の面影をば傳ふべかりしなれといふ。われ。仰せは理あるに似たれども、畫の妙は題の穢を忘れしむることあるべし。姫。そはきはめて有るべからざる事なり。藝術はその枝その葉の末までも、清淨|醇白《じゆんぱく》なるべきものにて、理想の高潔は人を動かすこと形式の美麗に倍す。古の作者の手に成りし聖母の像を視るに、すべて硬く鋭くして、支那人の畫もかくやとおもはるれども、我はこれに打ち向ふごとに、必ず心の底に徹する如き念をなせり。この高潔といふものは、その作畫者のために缺くべからざること、度曲者《ときよくしや》に於けると同じ。名作中こゝかしこに稍※[#二の字点、1−2−22]過ぎたりと見ゆる節あるをば、その作者の一時の出來心と看做《みな》して、恕《ゆる》すこともあるべけれど、その疵瑕《しか》は遂に疵瑕たることを免るべからず。わがまことに愛づるは無瑕の美玉にこそ。われ。さらば君は變化を命題の間に求めんことをば是とし給はずや。いかなる大家|鉅匠《きよしやう》にても、幅ごとに題を同うせば人の厭倦を招くなるべし。姫。否々、そは我が言はんと欲せしところにあらず。わが本意は畫工に聖母のみ畫かせんとにはあらず。めでたき山水も好し。賑はしき風俗畫、颶風《ぐふう》に抗《あらが》ふ舟の圖も好し。サルワトオレ・ロオザ[#「サルワトオレ・ロオザ」に傍線]が山賊の圖もいかでか好からざらん。われは唯だ藝術の境に背徳を容れじとこそ云へ。わが趣味より視れば、かの「シヤリア」宮なるシドオニイ[#「シドオニイ」に傍線]の畫の如きすら、その巧緻その汚穢《をわい》を掩《おほ》ふに足らず。君は猶彼圖を記し給ふ
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