ヘ、汝其詩を讀み上げよ。ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]いかなる面《おもて》をかすらん。面白し/\。汝が讀むべき詩は、その外にはあらじ。斯く勸めらるゝに、われは手を揮《ふ》りて諾《うべな》はざりき。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]語を繼ぎていふやう。さらば汝はえ讀まぬなるべし。我にその詩を得させよ。われダンテ[#「ダンテ」に傍線]の不朽をもて、ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]を苦めんとす。汝はおのが美しき羽を拔きて、このおほおそ鳥を飾らんを惜むか。讓るは汝が常の徳にあらずや。いかに/\、と勸めて止まざりき。我もその日のありさまいかに面白からんとおもへば、詩稿をば直にベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]にわたしつ。
今も西班牙《スパニア》廣こうぢの「プロパガンダ」といふ學校にては、毎年一月十三日に、祭の式行はるゝ事なるが、當時は「ジエスヰタ」學校に、おなじ式ありき。諸生徒はおの/\その故郷の語、若くはその最も熟したる語にて、一篇の詩を作り、これを式場に持ち出でゝ讀むことなり。題をば自ら撰びて、師の認可を請ひ、さて章を成すを法とす。
題の認可の日に、ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]はベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]にいふやう。君は又何の題をも撰び給はざりしならん。君は歌ふ鳥の群にあらねば。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]のいはく。否。ことしは例に違ひて作らんとおもへり。伊太利詩人の中にて題とすべきものを求めたるが、その第一の大家を歌はんは、わが力の及ばざるところなり。さればわれは稍※[#二の字点、1−2−22]《やゝ》小なるものをとて、ダンテ[#「ダンテ」に傍線]を撰びぬ、ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]冷笑《あざわら》ひていふ。ダンテ[#「ダンテ」に傍線]を詠ずとならば、定めて傑作をなすなるべし。そは聞きものなり。さはあれ式の日には、僧官たちも皆臨席せらるゝが上に、外國の貴賓も來べければ、さる戲はふさはしからず。謝肉《カルネワレ》の祭をこそ待ち給ふべけれ。この詞にて、他人ならば思ひとゞまるべきなれど、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]はなか/\屈すべくもあらず。別の師の許を得て、かの詩を讀むことゝ定めき。われは本國を題として、新に一篇を草しはじめつ。
學校の規則には、詩賦は他人の助を藉《か》ることを允《ゆる》さずと記したり。されどいつも雨雲に蔽《おほ》はれたるハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]が面に、些《ちと》の日光を見んと願ふものは、先づ草稿を出して閲を請ひ、自在に塗抹せしめずてはかなはず。大抵|原《もと》の語は、纔《わづか》にその半を存するのみなり。さて詩の拙《つたな》さは、すこしも始に殊ならず。その始に殊なるは、唯だその癖、その手段のみなるべし。斯く改めたる作、他日よそ人に譽めらるゝ時は、ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]は必ずおのれが刪潤《さんじゆん》せしを告ぐ。こたび讀むべき詩も、多く一たびハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]が手を經たるが、ひとりベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]が詩のみは、遂にその目に觸れざりき。
兎角する程にその日となりぬ。馬車は次第に學校の門に簇《むらが》りぬ。老僧官たちは、赤き法衣の裾を牽《ひ》きて式場に入り、美しき椅子に倚《よ》り給ひぬ。詩の題、その國語、その作者など列記したる刷ものは、來賓に頒《わか》たれぬ。ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]先づ開場の演説をなし、諸生徒は次を逐ひて詩を讀みたり。シリア[#「シリア」に二重傍線]、カルデア[#「カルデア」に二重傍線]、新|埃及《エヂプト》、其外梵文英語の作さへありて、その耳ざはり愈※[#二の字点、1−2−22]あやしうして、喝采の聲は愈※[#二の字点、1−2−22]盛なりき。但だ喝采の聲には、拍手なんどのみならで、高笑もまじるを常とす。
われは胸を跳らせて進み出で、伊太利を頌したる短篇を讀みき。喝采の聲は幾度となく起りぬ。老いたる僧官達も手を拍ち給ひぬ。ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]出來る限のやさしき顏をなし、手中の桂冠を動かしつ。伊太利語の詩もて、我後に技を奏すべきは、獨りベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]あるのみにて、其次なる英語は固《もと》より賞を得べくもあらねば、あはれ此冠は我頭の上に落ちんとぞおもはれける。
その時ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は壇に登りぬ。我はあやぶみながら友の言動に耳を傾け目を注ぎつ。友は些《いさゝか》の怯《おく》れたる氣色もなく、かのダンテ[#「ダンテ」に傍線]を詠ずる詩を誦《ず》したり。式場は忽ち水を打ちたるやうに鎭まりぬ。讀誦《どくじゆ》の力あるに、聽くもの皆感動したるなり。われは初より隻句を遺《のこ》さず諳《そらん》じたり。されど今改めてこれを聽けば、ほと/\ダンテ[#「ダンテ」に傍線]其人の作を聞くが如くおもはれぬ。誦し畢《をは》りし時、場に臨みたる人々は、悉く喝采せり。僧官達は席を離れ給ひぬ。式はこゝに終れるが如く、桂冠はベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]がものと定りぬ。次なる英語の詩をば、人々止むことを得ずして聽き、又止むことを得ずして拍手せしのみ。その畢るや、滿場の話柄はベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]がダンテ[#「ダンテ」に傍線]の詩の上にかへりぬ。
我頬は火の如くなりき。我胸は擴まりたり。我心は人々のベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]がために焚ける香の烟を吸ひて、ほと/\醉へるが如くなりき。この時われは友の方を打ち見たるに、彼が容貌はいたく常にかはりて見えき。その面色土の如く、目を床に注ぎて立てるさまは、重き罪を犯したる人の如くなりき。ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]も亦いたく不興げなるおも持して、心こゝにあらねばか、その手にしたる桂冠を摘み碎かんとする如くなりき。僧官のうちなる一人、迺《すなは》ちこれを取りて、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]が前に進み給ひぬ。我友は此時|跪《ひざまづ》きたるが、もろ手に面を掩《おほ》ひて、この冠を頭に受けたり。
式畢りて後、われは友の側に歩み寄りしに、彼は明日こそと云ひもあへず、走り去りぬ。翌日になりても、彼は我を避けて、共に語らざりき。我は唯だ一人なる友を失へるやうに覺えて、憂きに堪へざりき。二日過ぎて、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は我頸を擁《いだ》き、我手を把《と》りていふやう。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ。今こそは我心を語らめ。桂冠の我頭に觸れたる時は、われは百千《もゝち》の棘《いばら》もて刺さるゝ如くなりき。人々の我を譽むる聲は、我を嘲るが如くなりき。この譽を受くべきは、我に非ずして汝なればなり。我は汝が目のうちなる喜の色を見き。汝知らずや。この時われは汝を憎みたり。おもふに我はこゝにありて、今迄の如く汝に交ることを得ざるべし。この故に我はこゝを去らんとす。試におもへ。明年の式あらんとき、われ又汝が羽毛を借らずば、人々の前に出づることを得ざるべし。我心|爭《いか》でかこれに堪へん。我に勢あるをぢあり。我はこれに我上を頼みき。我は身を屈して願ひき。こはわが未だ嘗て爲さざることなり。わが敢てせざるところなり。我はその時又汝が事をおもひ出しつ。斯くわが心に負《そむ》きて人に頼るも、その原《もと》は汝に在るらんやうにおもはれぬ。この故に我は汝に對して、忍びがたき苦を覺ゆるなり。我は一たびこゝを去りて、別に身を立つるよすがを求め、その上にて又汝が友とならん。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ。願はくはその時を待て。吾は去らん。
この夕ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は晩《おそ》く歸りて床に入りしが、翌朝は彼が退校の噂諸生の間に高かりき。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は思ふよしありて、目的を變じたりとぞ聞えし。
ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]は冷笑の調子にていはく。彼男は流星の如く去りぬ。その光を放てると、その影を隱しゝとは、一瞬の間なりき。その學校生涯は爆竹の遽《にはか》に耳を駭《おどろ》かす如くなりき。その詩も亦然なり。彼草稿は猶我手に留まれり。何等の怪しき作ぞ。熟※[#二の字点、1−2−22]《つら/\》これを讀むときは、畢竟是れ何物ぞ。斯くても尚詩といはるべき歟《か》。全篇支離にして、絶て格調の見るべきなし。看て瓶《へい》となせば、これ瓶。盞《さん》となせば、是れ盞。劍となせば、これ劍。その定まりたる形なきこと、これより甚しきはあらず。字を剩《あま》すこと凡そ三たび。聞くに堪へざる平字《ひやうじ》の連用(ヒアツス)あり。神《ヂアナ》といふ字を下すことおほよそ二十五處、それにて詩をかう/″\しくせんとにや。性靈よ、性靈よ。誰かこれのみにて詩人とならん。このとりとめなき空想能く何事をか做《な》し出さん。こゝに在りと見れば、忽焉《こつえん》としてかしこに在り。汝は才といふか。才果して何をかなさん。眞の詩人の貴むところは、心の上の鍛錬なり。詩人はその題のために動さるゝこと莫《なか》れ。その心は冷なること氷の如くならんを要す。その心の生ずるところをば、先づ刀もて截《き》り碎き、一片々々に査《しら》べ視よ。かく細心して組み立てたるを、まことの名作とはいふなり。厭ふべきは熱なり、激興なり。誰かその熱に感じて、桂冠を乳臭兒の頭に加へし。その詩に史上の事實を矯《た》め、聞くに堪へざる平字の連用をなしたるなど、皆|笞《むちう》ち懲《こら》すべき科《とが》なるを。我はまことに甚しき不快を覺えき。かゝる事に逢ふごとに、我は健康をさへ害せられんとす。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]のこわつぱ奴《め》。ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]が批評は大抵此の如くなりき。
學校の中、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]が去りしを惜まざるものなかりき。されどその惜むことの最も深きは我なりき。身のめぐりは遽《にはか》に寂しくなりぬ。書を讀みても物足らぬ心地して、胸の中には遺るに由なき悶《もだえ》を覺えき。さて如何《いかに》してこれを散ずべき。唯だ音樂あるのみ。我生活我願望はこれを樂の裡《うち》に求むるとき、始めて殘るところなく明《あきらか》なる如くなりき。こゝを思へば、詩には猶飽き足らぬところあり。ダンテ[#「ダンテ」に傍線]が雄篇にも猶我心を充たすに足らざるところあり。詩は我《わが》魂《こん》を動せども、樂はわが魂と共に、わが耳によりてわが魄《はく》を動《うごか》せり。夕されば我窓の外に、一群の小兒來て、聖母の像を拜みて歌へり。その調は我にわが穉《をさな》かりける時を憶ひ起さしむ。その調はかの笛ふきが笛にあはせし搖籃の曲に似たり、又或時は野邊送の列、窓の下を過ぐるを見て、これをおくる僧尼の挽歌を聽き、昔母上を葬りし時を思ひ出しつ。我心はこしかたより行末に遷《うつ》りゆきぬ。我胸は押し狹《せば》めらるゝ如くなりぬ。昔歌ひし曲は虚空より來りて我耳を襲へり。その曲は知らず識らず我唇より洩れて歌聲となりぬ。
ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]が室は、我室を去ること近からぬに、我聲は覺えず高くなりて、そこまで聞えぬ。ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]人して言はしむるやう。こゝは劇場にもあらず、又唱歌學校にもあらず、讚美歌に非ざる歌の聞ゆるこそ心得られねとなり。われは默して答へず。頭を窓の縁に寄せかけて、目を街のかたに注ぎたれど、心はこゝに在らざりき。
忽ち街上より「フエリチツシイマ、ノツテエ、アントニオ」(幸《さち》あらん夜をこそ祈れ、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よといふ事なり、北歐羅巴にては善き夜をとのみいふめれど、伊太利の夜の樂きより、かゝる詞さ
前へ
次へ
全68ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング