やしく動かされぬ。かの異國人は地獄に墜《お》ちて永く浮ぶ瀬あらざるべきかと母上問ひ給ひぬ。そはひとりかの男の上のみにはあらじ。異國人のうちにはかの男の如く惡しき事をば一たびもせざるもの多し。かの輩《ともがら》は貧き人に逢ふときは物取らせて吝《をし》むことなし。かの輩は債あるときは期を愆《あやま》たず額をたがへずして拂ふなり。然《しか》のみならず、かの輩は吾邦人のうちなる多人數の作る如き罪をば作らざるやうにおもはる。母上の問はおほよそ此の如くなりき。
フラア・マルチノ[#「フラア・マルチノ」に傍線]の答へけるやう。さなり。まことにいはるゝ如き事あり。かの輩のうちには善き人少からず。されどおん身は何故に然るかを知り給ふか。見給へ。世中をめぐりありく惡魔は、邪宗の人の所詮おのが手に落つべきを知りたるゆゑ、強ひてこれを誘はむとすることなし。このゆゑに彼輩は何の苦もなく善行をなし、罪惡をのがる。善き加特力《カトリコオ》教徒はこれと殊《こと》にて神の愛子《まなご》なり、これを陷《おとしい》れむには惡魔はさま/″\の手立を用ゐざること能はず。惡魔はわれ等を誘ふなり。われ等は弱きものなればその手の中に落つること多し。されど邪宗の人は肉體にも惡魔にも誘はるゝことなしと答へき。
母上はこれを聞きて復た言ふべきこともあらねば、便《びん》なき少年の上をおもひて大息《といき》つき給ひぬ。かたへ聞《ぎき》せしわれは泣き出しつ。こはかの人の永く地獄にありて※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]に苦められむつらさをおもひければなり。かの人は善き人なるに、わがために美しき畫をかく人なるに。
わが穉きころ、わがためにおほいなる意味ありと覺えし第三の人はペツポ[#「ペツポ」に傍線]のをぢなりき。惡人《あくにん》ペツポ[#「ペツポ」に傍線]といふも西班牙磴《スパニアいしだん》の王といふも皆その人の綽號《あだな》なりき。此王は日ごとに西班牙磴の上に出御《しゆつぎよ》ましましき。(西班牙廣こうぢよりモンテ、ピンチヨオ[#「モンテ、ピンチヨオ」に二重傍線]の上なる街に登るには高く廣き石級あり。この石級は羅馬の乞兒《かたゐ》の集まるところなり。西班牙廣こうぢより登るところなればかく名づけられしなり。)ペツポ[#「ペツポ」に傍線]のをぢは生れつき兩の足痿《な》えたる人なり。當時そを十字に組みて折り敷き居たり。されど穉きときよりの熟錬にて、をぢは兩手もて歩くこといと巧なり。其手には革紐を結びて、これに板を掛けたるが、をぢがこの道具にて歩む速さは健《すこや》かなる脚もて行く人に劣らず。をぢは日ごとに上にもいへるが如く西班牙磴の上に坐したり。さりとて外の乞兒の如く憐を乞ふにもあらず。唯だおのが前を過ぐる人あるごとに、詐《いつはり》ありげに面《おもて》をしかめて「ボン、ジヨオルノオ」(我俗の今日はといふ如し)と呼べり。日は既に入りたる後もその呼ぶ詞はかはらざりき。母上はこのをぢを敬ひ給ふことさまでならざりき。あらず。親族《みうち》にかゝる人あるをば心のうちに恥ぢ給へり。されど母上はしば/\我に向ひて、そなたのためならば、彼につきあひおくとのたまひき。餘所《よそ》の人の此世にありて求むるものをば、かの人|筐《かたみ》の底に藏《をさ》めて持ちたり。若し臨終に、寺に納めだにせずば、そを讓り受くべき人、わが外にはあらぬを、母上は恃《たの》みたまひき。をぢも我に親むやうなるところありしが、我は其側にあるごとに、まことに喜ばしくおもふこと絶てなかりき。或る時、我はをぢの振舞を見て、心に怖を懷きはじめき。こは、をぢの本性をも見るに足りぬべき事なりき。例の石級の下に老いたる盲《めくら》の乞兒《かたゐ》ありて、往きかふ人の「バヨツコ」(我二錢|許《ばかり》に當る銅貨)一つ投げ入れむを願ひて、薄葉鐵《トルヲ》の小筒をさら/\と鳴らし居たり。我がをぢは、面にやさしげなる色を見せて、帽を揮《ふ》り動しなどすれど、人々その前をばいたづらに過ぎゆきて、かの盲人の何の會釋もせざるに、錢を與へき。三人かく過ぐるまでは、をぢ傍より見居たりしが、四人めの客かの盲人に小貨幣二つ三つ與へしとき、をぢは毒蛇の身をひねりて行く如く、石級を下りて、盲の乞兒の面を打ちしに、盲の乞兒は錢をも杖をも取りおとしつ。ペツポ[#「ペツポ」に傍線]の叫びけるやう。うぬは盜人なり。我錢を竊《ぬす》む奴《やつ》なり。立派に廢人《かたは》といはるべき身にもあらで、たゞ目の見えぬを手柄顏に、わが口に入らむとする「パン」を奪ふこそ心得られねといひき。われはこゝまでは聞きつれど、こゝまでは見てありつれど、この時買ひに出でたる、一「フオリエツタ」(一勺)の酒をひさげて、急ぎて家にかへりぬ。
大祭日には、母につきてをぢがり祝《よろこび》にゆきぬ。その折には苞苴《みやげ》もてゆくことなるが、そはをぢが嗜《たしな》めるおほ房の葡萄二つ三つか、さらずば砂糖につけたる林檎なんどなりき。われはをぢ御《ご》と呼びかけて、その手に接吻しき。をぢはあやしげに笑ひて、われに半「バヨツコ」を與へ、果子をな買ひそ、果子は食ひ畢《をは》りたるとき、迹かたもなくなるものなれど、この錢はいつまでも貯へらるゝものぞと教へき。
をぢが住めるところは、暗くして見苦しかりき。一|間《ま》には窓といふものなく、また一|間《ま》には壁の上の端に、破硝子《やれガラス》を紙もて補ひたる小窓ありき。臥床《ふしど》の用をもなしたる大箱と、衣を藏《をさ》むる小桶二つとの外には、家具といふものなし。をぢがり往け、といはるゝときは、われ必ず泣きぬ。これも無理ならず。母上はをぢにやさしくせよ、と我にをしへながら、我を嚇《おど》さむとおもふときは、必ずをぢを案山子《かゝし》に使ひ給ひき。母上の宣《の》たまひけるやう。かく惡劇《いたづら》せば、好きをぢ御の許にやるべし。さらば汝も磴《いしだん》の上に坐して、をぢと共に袖乞するならむ、歌をうたひて「バヨツコ」をめぐまるゝを待つならむとのたまふ。われはこの詞を聞きても、あながち恐るゝことなかりき。母上は我をいつくしみ給ふこと、目の球にも優れるを知りたれば。
向ひの家の壁には、小龕《せうがん》をしつらひて、それに聖母の像を据ゑ、その前にはいつも燈を燃やしたり。「アヱ、マリア」の鐘鳴るころ、われは近隣の子供と像の前に跪《ひざまづ》きて歌ひき。燈の光ゆらめくときは、聖母も、いろ/\の紐、珠、銀色したる心《しん》の臟などにて飾りたる耶蘇のをさな子も、共に動きて、我等が面を見て笑み給ふ如くなりき。われは高く朗なる聲して歌ひしに、人々聞きて善き聲なりといひき。或る時|英吉利《イギリス》人の一家族、我歌を聞きて立ちとまり、歌ひ畢《をは》るを待ちて、長《をさ》らしき人われに銀貨一つ與へき。母に語りしに、そなたが聲のめでたさ故、とのたまひき。されどこの詞は、その後我祈を妨ぐること、いかばかりなりしを知らず。それよりは、聖母の前にて歌ふごとに、聖母の上をのみ思ふこと能はずして、必ず我聲の美しきを聞く人やあると思ひ、かく思ひつゝも、聖母のわがあだし心を懷けるを嫉《にく》み給はむかとあやぶみ、聖母に向ひて罪を謝し、あはれなる子に慈悲の眸を垂れ給へと願ひき。
わが餘所の子供に出で逢ふは、この夕の祈の時のみなりき。わが世は靜けかりき。わが自ら作りたる夢の世に心を潜め、仰ぎ臥して開きたる窓に向ひ、伊太利《イタリア》の美しき青空を眺め、日の西に傾くとき、紫の光ある雲の黄金色したる地の上に垂れかゝりたるをめで、時の遷《うつ》るを知らざることしば/\なりき。ある時は、遠くクヰリナアル[#「クヰリナアル」に二重傍線](丘の名にて、其上に法皇の宮居あり)と家々の棟《むね》とを越えて、紅に染まりたる地平線のわたりに、眞黒《まくろ》に浮き出でゝ見ゆる「ピニヨロ」の木々の方へ、飛び行かばや、と願ひき。我部屋には、この眺ある窓の外、中庭に向へる窓ありき。我家の中庭は、隣の家の中庭に並びて、いづれもいと狹く、上の方は木の「アルタナ」(物見のやうにしたる屋根)にて鎖《とざ》されたり。庭ごとに石にて甃《たゝ》みたる井ありしが、家々の壁と井との間をば、人ひとり僅かに通らるゝほどなれば、我は上より覗きて、二つの井の内を見るのみなりき。緑なるほうらいしだ(アヂアンツム)生ひ茂りて、深きところは唯だ黒くのみぞ見えたる。俯してこれを見るたびに、われは地の底を見おろすやうに覺えて、ここにも怪しき境ありとおもひき。かゝるとき、母上は杖の尖《さき》にて窓硝子を淨め、なんぢ井に墜ちて溺れだにせずば、この窓に當りたる木々の枝には、汝が食ふべき果《このみ》おほく熟すべしとのたまひき。
隧道、ちご
我家に宿りたる畫工は、廓外に出づるをり、我を伴ひゆくことありき。畫を作る間は、われかれを妨ぐることなかりき。さて作り畢《をは》りたるとき、われ穉《をさな》き物語して慰むるに、かれも今はわが國の詞を解《げ》して、面白がりたり。われは既に一たび畫工に隨ひて、「クリア、ホスチリア」にゆき、昔游戲の日まで猛獸を押し込めおきて、つねに無辜《むこ》の俘囚を獅子、「イヱナ」獸なんどの餌としたりと聞く、かの暗き洞の深き處まで入りしことあり。洞の裡《うち》なる暗き道に、我等を導きてくゞり入り、燃ゆる松火《たいまつ》を、絶えず石壁に振り當てたる僧、深き池の水の、鏡の如く明《あきらか》にて、目の前には何もなきやうなれば、その足もとまで湛へ寄せたるを知らむには、松火もて觸れ探らではかなはざるほどなる、いづれもわが空想を激したりき。われは怖をば懷かざりき。そは危しといふことを知らねばなりけり。
街のはつる處に、「コリゼエオ」(大觀棚《おほさじき》)の頂見えたるとき、われ等はかの洞の方へゆくにや、と畫工に問ひしに、否、あれよりは※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]《はるか》に大なる洞にゆきて、面白きものを見せ、そなたをも景色と倶《とも》に寫すべし、と答へき。葡萄圃の間を過ぎ、古の混堂《ゆや》の址《あと》を圍みたる白き石垣に沿ひて、ひたすら進みゆく程に羅馬の府の外に出でぬ。日はいと烈しかりき。緑の枝を手折りて、車の上に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]し、農夫はその下に眠りたるに、馬は車の片側に弔《つ》り下げたる一束の秣《まぐさ》を食ひつゝ、ひとり徐《しづか》に歩みゆけり。やう/\女神エジエリア[#「エジエリア」に傍線]の洞にたどり着きて、われ等は朝餐《あさげ》を食《たう》べ、岩間より湧き出づる泉の水に、葡萄酒混ぜて飮みき。洞の裏《うち》には、天井にも四方の壁にも、すべて絹、天鵝絨《びろおど》なんどにて張りたらむやうに、緑こまやかなる苔生ひたり。露けく茂りたる蔦《つた》の、おほいなる洞門にかゝりたるさまは、カラブリア[#「カラブリア」に二重傍線]州の谿間《たにま》なる葡萄架《ぶだうだな》を見る心地す。洞の前數歩には、その頃いと寂しき一軒の家ありて、「カタコンバ」のうちの一つに造りかけたりき。この家今は潰《つひ》えて斷礎をのみぞ留めたる。「カタコンバ」は人も知りたる如く、羅馬城とこれに接したる村々とを通ずる隧道《すゐだう》なりしが、半《なかば》はおのづから壞れ、半は盜人、ぬけうりする人なんどの隱家となるを厭ひて、石もて塞がれたるなり。當時猶存じたるは、聖セバスチヤノ[#「セバスチヤノ」に傍線]寺の内なる穹窿の墓穴よりの入口と、わが言へる一軒家よりの入口とのみなりき。さてわれ等はかの一軒家のうちなる入口より進み入りしが、おもふに最後に此道を通りたるはわれ等二人なりしなるべし。いかにといふに此入口はわれ等が危き目に逢ひたる後、いまだ幾《いくばく》もあらぬに塞がれて、後には寺の内なる入口のみ殘りぬ。かしこには今も僧一人居りて、旅人を導きて穴に入らしむ。
深きところには、軟《やはらか》なる土に掘りこみたる道の行き違ひたるあり。その枝の多き、その樣の相似たる、おもなる筋を知りたる人
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