オど》より起ち、人の我側に在らざるに乘じて、壁に懸けたる外套を纏ひ、岸邊なる小舟を招きて、「デイ、フラアリイ」の寺に往かんことを命じつ。こは市長《ボデスタ》が累世の墓ある處にして、われは曾て一たび其窟墓を窺ひしことありき。夜は暗くして、「アヱ、マリア」の鐘と共に閉されたる門の前には人影早や絶えたり。われは扉をほと/\と敲《たゝ》きしに、寺僮は我が爲めに門を開きつ。そは曾てわが市長に伴はれて來ぬる時、我にチチヤノ[#「チチヤノ」に傍線]とカノワ[#「カノワ」に傍線]との墓を指《ゆびざ》し教へしことあれば、猶我面を見知り居たりしなり。寺僮は我心を計《はか》り得て、君は遺骸を見に來給ひしならん、今は猶|贄卓《にへづくゑ》の前に置かれたれど、あすは龕《がん》に藏《をさ》めらるべしとて、燭を點して我を導き、鑰匙《かぎ》取り出でゝ側なる小き戸を開きつ。寺僮と我との足音は、穹窿の間《あひだ》に寂しき反響を喚起せり。寺僮の柩《ひつぎ》はかしこにと指して、立ち留まるがまゝに、我はひとり長廊を進めり。聖母《マドンナ》の御影の前に、一燈微かに燃え、カノワ[#「カノワ」に傍線]が棺のめぐりなる石人は朧氣なる輪
前へ 次へ
全674ページ中664ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング