竄ヲて、獅子の翼の外人《よそびと》に縛せられてより、ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の民はその歌謠の上の國粹をさへ失ひつるなり。われは獨語して、いでや人生の渦裏に投じて、人生の樂《たのしみ》を受用し、誓ひて餘瀝なからしめんと云ふとき、舟はもとの旅館の階下に留まりぬ。われは又蹣跚として階を上り、おぼつかなき孤客の夢を結びぬ。

   颶風

 羅馬より齎《もたら》したる紹介状は、我をして相識を得しめ、我をして所謂朋友あらしめたり。人々は我を「アバテ」と喚べり。我言の善きをば人皆褒め、我|才《ざえ》をば人皆稱せり。羅馬なる恩人は常に我に不快なる事を告げ、中にはことさらに我に快からざるべき事どもを探り覓《もと》めて、そを我に告ぐる如くなりしに、今はさる詞を耳にすることなし。羅馬にては常に長上にのみ交ることゝて、フラミニア[#「フラミニア」に傍線]の姫の情あるすら、我をして抑壓の苦を忘れしむること能はざりしに、今は心にさる負荷《おひに》を覺ゆることなし。苦言を聞かざるは、信ある友なきなりといへば、こゝには信ある友は絶て無きなるべし。
 われは大統領《ドオジエ》の館《たち》の輪奐《りんくわん
前へ 次へ
全674ページ中578ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング