ゥぶを聞きつ。我等は彼方へおし遣られ、又此方へおし戻されき。こは一二頭の仗馬《ぢやうめ》の物に怯《お》ぢて駈け出したるなり。われは纔《わづか》にこの事を聞きたる時、騷ぎ立ちたる人々に推し倒されぬ。目の前は黒くなりて、頭の上には瀑布《たき》の水漲り落つる如くなりき。
あはれ、神の母よ、哀なる事なりき。われは今に至るまで、その時の事を憶ふごとに、身うち震ひて止まず。我にかへりしとき、マリウチア[#「マリウチア」に傍線]は泣き叫びつゝ、我頭を膝の上に載せ居たり。側には母上地に横《よこたは》り居給ふ。これを圍みたるは、見もしらぬ人々なり。馬は車を引きたる儘《まゝ》にて、仆《たふ》れたる母上の上を過ぎ、轍《わだち》は胸を碎きしなり。母上の口よりは血流れたり。母上は早や事きれ給へり。
人々は母上の目を瞑《ねむ》らせ、その掌を合せたり。この掌の温きをば今まで我肩に覺えしものを。遺體をば、僧たち寺に舁《か》き入れぬ。マリウチア[#「マリウチア」に傍線]は手に淺痍《あさで》負ひたる我を伴ひて、さきの酒店《さかみせ》に歸りぬ。きのふは此酒店にて、樂しき事のみおもひつゝ、花を編み、母上の腕《かひな》を枕
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