ー快《こゝろよ》げにもてなせども、胸の中の苦しさは譬へんに物無かりき。此間人々は一たびも小尼公《アベヂツサ》の名を我前に唱ふることなかりき。かくて小尼公の尼寺に入り給ひしより、六週の後となりし時、醫師《くすし》は始て我に戸外《とのも》を逍遙することを許しつ。
 我は期《ご》する所あるに非ずして、ポルタ、ピア[#「ポルタ、ピア」に二重傍線]の傍に立ち、目を四井街《クワトロ、フオンタネ》の方に注ぎつ。されど我は猶心に憚《はゞか》りて、尼寺の門に到ることを果さゞりき。二三日の後、我は新月の光を趁《お》ひて、又同じところに來しに、こたびは自ら禁ずること能はずして、進みて灰色の寺壁の下に立ち、格子窓を仰ぎ視たり。我は自らことわりて、誰かわが此墳墓を展《み》るを難ずることを得んと云ひぬ。これよりして、我足は日として四井街に向はざることなく、偶※[#二の字点、1−2−22]《たま/\》識る人に逢ふことあれば、散歩のゆくてはヰルラ、アルバニ[#「ヰルラ、アルバニ」に二重傍線]なりと欺《あざむ》きつ。
 我足の尼寺の築泥《ついぢ》の外に通ふこと愈※[#二の字点、1−2−22]繁く、我情の迫ること愈※[#
前へ 次へ
全674ページ中554ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング