なる家の見えぬこそ恨なれ。わがいふ家の石垣よりのぞきたる三條の樋《ひ》の口は水を吐きて石盤に入らしむ。この家はわがためには尋常《よのつね》ならぬおもしろ味あり。そをいかにといふにわれはこの家にて生れぬ。首《かうべ》を囘《めぐら》してわが穉《をさな》かりける程の事をおもへば、目もくるめくばかりいろ/\なる記念の多きことよ。我はいづこより語り始めむかと心迷ひて爲《せ》むすべを知らず。又我世の傳奇《ドラマ》の全局を見わたせば、われはいよ/\これを寫す手段に苦《くるし》めり。いかなる事をか緊要ならずとして棄て置くべき。いかなる事をか全畫圖をおもひ浮べしめむために殊更に數へ擧ぐべき。わがためには面白きことも外人《よそびと》のためには何の興もなきものあらむ。われは我世のおほいなる穉物語《をさなものがたり》をありのまゝに僞り飾ることなくして語らむとす。されどわれは人の意を迎へて自ら喜ぶ性《さが》のこゝにもまぎれ入らむことを恐る。この性は早くもわが穉き時に、畠の中なる雜草の如く萌え出でゝ、やうやく聖經に見えたる芥子《かいし》の如く高く空に向ひて長じ、つひには一株の大木となりて、そが枝の間にわが七情は巣
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