りていふやう。花はそちが手にありて美しくぞなるべき。彼の目には福《さいはひ》の星ありといふ。我は編みかけたる環飾を、我唇におし當てたるまゝ、驚きて彼の方を見居たり。媼またいはく。その月桂の葉は、美しけれど毒あり。飾に編むは好し。唇にな當てそといふ。此時アンジエリカ[#「アンジエリカ」に傍線]籬《まがき》の後より出でゝいふやう。賢き老女、フラスカアチ[#「フラスカアチ」に傍線]のフルヰア[#「フルヰア」に傍線]。そなたも明日の祭の料にとて、環飾編まむとするか。さらずは日のカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]のあなたに入りてより、常ならぬ花束を作らむとするかといふ。媼はかく問はれても、顧みもせで我面のみ打ち目守り、詞を續《つ》ぎていふやう。賢き目なり。日の金牛宮を過ぐるとき誕《うま》れぬ。名も財《たから》も牛の角にかゝりたりといふ。此時母上も歩み寄りてのたまふやう。吾子が受領すべきは、緇《くろ》き衣と大なる帽となり。かくて後は、護摩《ごま》焚きて神に仕ふべきか、棘《いばら》の道を走るべきか。そはかれが運命に任せてむ、とのたまふ。媼は聞きて、我を僧とすべしといふ意《こゝろ》ぞ、とは心得たりと覺えられき。されど當時は、我等悉く媼が詞の顛末《もとすゑ》を解《げ》すること能はざりき。媼のいふやう。あらず。此兒が衆人《もろひと》の前にて説くところは、げに格子の裏《うち》なる尼少女の歌より優しく、アルバノ[#「アルバノ」に二重傍線]の山の雷より烈しかるべし。されどその時戴くものは大なる帽にあらず。福《さいはひ》の座は、かの羊の群の間に白雲立てる、カヲ[#「カヲ」に二重傍線]の山より高きものぞといふ。この詞のめでたげなるに、母上は喜び給ひながら、猶|訝《いぶか》しげにもてなして、太き息つきつゝ宣給《のたま》ふやう。あはれなる兒なり。行末をば聖母こそ知り給はめ。アルバノ[#「アルバノ」に二重傍線]の農夫の車より福《さいはひ》の車は高きものを、かゝるをさな子のいかでか上り得むとのたまふ。媼のいはく。農車の輪のめぐるを見ずや。下なる輻《や》は上なる輻となれば、足を低き輻に踏みかけて、旋《めぐ》るに任せて登るときは、忽ち車の上にあるべし。(アルバノ[#「アルバノ」に二重傍線]の農車はいと高ければ、農夫等かくして登るといふ。)唯だ道なる石に心せよ。市に舞ふ人もこれに躓《つまづ》く習ぞといふ。母上は半ば戲のやうに、さらばその福の車に、われも倶に登るべきか、と問ひ給ひしが、俄に打ち驚きてあなやと叫び給ひき。この時大なる鷙鳥《してう》ありて、さと落し來たりしに、その翼の前なる湖を撃ちたるとき、飛沫は我等が面を濕《うるほ》しき。雲の上にて、鋭くも水面に浮びたる大魚を見付け、矢を射る如く來りて攫《つか》みたるなり。刃の如き爪は魚の脊を穿《うが》ちたり。さて再び空に揚らむとするに、騷ぐ波にて測るにも、その大さはよの常ならぬ魚にしあれば、力を極めて引かれじと爭ひたり。鳥も打ち込みたる爪拔けざれば、今更にその獲ものを放つこと能はず。魚と鳥との鬪はいよ/\激しく、湖水の面ゆらぐまに/\、幾重ともなき大なる環を畫き出せり。鳥の翼は忽ち斂《をさ》まり、忽ち放たれ、魚の背は浮ぶかと見れば又沈みつ。數分時の後、雙翼靜に水を蔽ひて、鳥は憩ふが如く見えしが、俄にはたゝく勢に、偏翼|摧《くだ》け折るゝ聲、岸のほとりに聞えぬ。鳥は殘れる翼にて、二たび三たび水を敲き、つひに沈みて見えずなりぬ。魚は最後の力を出して、敵を負ひて水底に下りしならむ。鳥も魚も、しばしが程に、底のみくづとなるならむ。我等は詞もあらで、此|光景《ありさま》を眺め居たり。事果てゝ後顧みれば、かの媼は在らざりき。
 我等は詞少く歸路をいそぎぬ。森の木葉《このは》のしげみは、闇を吐き出だす如くなれど、夕照《ゆふばえ》は湖水に映じて纔《わづか》にゆくてに迷はざらしむ。この時聞ゆる單調なる物音は粉碾車《こひきぐるま》の轢《きし》るなり。すべてのさま物凄く恐ろしげなり。アンジエリカ[#「アンジエリカ」に傍線]はゆく/\怪しき老女が上を物語りぬ。かの媼は藥草を識りて、能く人を殺し、能く人を惑はしむ。オレワアノ[#「オレワアノ」に二重傍線]といふ所に、テレザ[#「テレザ」に傍線]といふ少女ありき。ジユウゼツペ[#「ジユウゼツペ」に傍線]といふ若者が、山を越えて北の方へゆきたるを戀ひて、日にけに痩せ衰へけり。媼さらば其男を喚び返して得させむとてテレザ[#「テレザ」に傍線]が髮とジユウゼツペ[#「ジユウゼツペ」に傍線]が髮とを結び合せて、銅の器に入れ、藥草を雜《まじ》へて煮き。ジユウゼツペ[#「ジユウゼツペ」に傍線]は其日より、晝も夜も、テレザ[#「テレザ」に傍線]が上のみ案ぜられければ、何事をも打ち棄てゝ歸り來ぬとぞ。我は此物語
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