ォは、又我頬を撫でゝ、聖母の善き人を得給はんためには、美しき花の壓《お》さるゝ如く、人も壓されではかなはぬが浮世の習ぞと慰め給ひぬ。獨りフアビアニ[#「フアビアニ」に傍線]の君のみは、何事をもをかしき方に取りなして、岳翁《しうと》と夫人との教の嚴なることよと打笑ひ、さて我に向ひてのたまふやう。君は父上の如き學者とはならざるべし。はた妻のやうに怜悧なる人ともならざるならん。されど君が如き性もまた世の中になくて協はぬものぞと宣《のたま》ふ。斯く裁判し畢りて、小尼公《アベヂツサ》を召し給へば、我はその遊び戲れ給ふさまのめでたきを見て、身の憂きことを忘れ果てつ。人々は來ん年を北伊太利にて暮さんとその心構《こゝろがまへ》し給へり。夏はジエノワ[#「ジエノワ」に二重傍線]にとゞまり、冬はミラノ[#「ミラノ」に二重傍線]に往き給ふなるべし。我は來ん年の試驗にて、「アバテ」の位を受けんとす。人々は首途《かどで》に先だちて、大いなる舞踏會を催し、我をも招き給ひぬ。門前には大篝《おほかゞり》を焚かせたり。賓客の車には皆|松明《まつ》とりたる先供あるが、おの/\其火を石垣に設けたる鐵の柄に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]したれば、火の子|迸《ほとばし》り落ちて赤き瀑布《カスカタ》を見る心地す。法皇の兵《つはもの》は騎馬にて門の傍に控へたり。門の内なる小き園には五色の紙燈を弔《つ》り、正面なる大理石階には萬點の燭を點せり。階《きざはし》を升《のぼ》るときは奇香衣を襲ふ。こは級《きだ》ごとに瓶花《いけばな》、盆栽の檸檬《リモネ》樹を据ゑたればなり。階の際なる兵は肩銃の禮を施しつ。「リフレア」着飾りたる僕《しもべ》は堂に滿ちたり。フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君は眩《まばゆ》きまで美かりき。珍らしき樂土鳥の羽、組緒多くつけたる白き「アトラス」の衣はこれに一層の美しさを添へたり。そのやさしき指に觸れたるときの我喜はいかなりし。廣間二つに樂の群を居らせて、客の舞踏の場《には》としたり。舞ふ人の中にベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]ありき。金絲もて飾りたる緋|羅紗《らしや》の上衣、白き細袴《ズボン》、皆發育好き身形《みなり》に適《かな》ひたり。その舞の敵手《あひて》はこよひ集ひし少女の中にて、すぐれて美しき一人なるべし。纖《かぼそ》き手をベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]が肩に打ち掛けて秋波を送れり。我が舞を知らざることの可悔《くやし》かりしことよ。客に相識る人少ければ、我を顧みるものなし。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]が舞果てゝ我傍に來りしとき、我憂は忽ち散じたり。紅なる帷《とばり》の長く垂れたる背後《うしろ》にて、我等二人は「シヤムパニエ」酒の杯を傾け、別後の情を語りぬ。面白き樂の調《しらべ》は耳より入りて胸に達し、昔日の不興をば少しも殘さず打ち消しつ。われ遠慮せで猶太少女の事を語り出でしに、友は唯だ高く笑ひぬ。その胸の内なる痍《きず》は早くも愈《い》えて跡なきに至りしものなるべし。友のいはく。われはその後聲めでたき小鳥を捕へたり。この鳥我戀の病を歌ひ治《なほ》しき。これある間は、よその鳥はその飛ぶに任せんのみ。その猶太廓より飛び去りしは事實なり。人の傳ふるが信ならば、今は羅馬にさへ居らぬやうなり。友と我とは又杯を擧げたり。泡立てる酒、賑はしき樂は我等が血を湧しつ。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は又舞踏の群に投ぜり。我は獨り殘りたれど、心の中には前に似ぬ樂しさを覺えき。街のかたを見おろせば、貧人の兒ども簇《むらが》りて、松明《まつ》より散る火の子を眺め、手を打ちて歡び呼べり。われも昔はかゝる兒どもの夥伴《つれ》なりしに、今堂上にありて羅馬の貴族に交るやうになりたるは、いかなる神のみ惠ぞ。われは帷《とばり》の蔭に跪《ひざまづ》きて神に謝したり。

   謝肉祭

 その夜は曉近くなりて歸りぬ。二日たちて人々は羅馬を立ち給ひぬ。ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]は日ごとに我を顧みて、ことしは「アバテ」の位受くべき歳ぞと、いましめ顏にいふ。されば此頃は文よむ窓を離れずして、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]をも外の友をも尋ぬることなかりき。週を累《かさ》ね月を積みて、試驗|畢《をは》る日とはなりぬ。
 黒き衣、短き絹の外套。是れ久しく夢みし「アバテ」の服ならずや。目に觸るゝもの一つとして我を祝せざるなし。街を走る吹聽人はいふも更なり、今咲き出づる「アネモオネ」の花、高く聳ゆる松の末《うれ》より空飛ぶ雲にいたるまで、皆我を祝する如し。恰も好しフランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君は、臨時の費《つひえ》もあるべく又日ごろの勞《つかれ》をも忘れしめ
前へ 次へ
全169ページ中43ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング