m」に二重傍線]の畫廊開かるべき日なり。且は美しき畫、めでたき石像を觀、且はなつかしき友の消息を聞かばやとおもひて、われは又學校の門を出でぬ。
美しきラフアエロ[#「ラフアエロ」に傍線]が半身像を据ゑたる長き廊の中に入りぬ。仰塵《てんじやう》にはかの大匠の下畫によりて、門人等が爲上げたりといふ聖經の圖あり。壁を掩《おほ》へるめづらしき飾畫、穹窿を填《うづ》めたる飛行の童の圖、これ等は皆我が見慣れたるものなれど、我は心ともなくこれに目を注ぎて、わが待つ人や來るとたゆたひ居たり。欄《おばしま》に凭《よ》りて遠く望めば、カムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野のかなたなる山々の雄々しき姿をなしたる、固より厭《あ》かぬ眺なれど、鋪石に觸るゝ劍の音あるごとに、我は其人にはあらずやとワチカアノ[#「ワチカアノ」に二重傍線]の庭を見おろしたり。されどベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は久しく來ざりき。
間といふ間を空《むなし》くめぐり來ぬ。ラオコオン[#「ラオコオン」に傍線]の群の前をも徒《いたづら》に過ぎぬ。我はほと/\興を失ひて、「トルソオ」をも「アンチノウス」をも打ち棄てゝ、家路に向はんとせしとき、忽ち羽つきたる※[#「(矛+攵)/金」、第3水準1−93−30]《かぶと》を戴き、長靴の拍車を鳴して、輕らかに廊を歩みゆく人あり。追ひ近づきて見ればベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]なり。友の喜は我喜に讓らざりき。語るべき事多ければ、共に來よと云ひつゝ、友は我を延《ひ》きて奧の方へ行きぬ。
汝はわが別後いかなる苦を嘗めしかを知らざるべし。又その苦の今も猶止むときなきを知らぬなるべし。譬へば我は病める人の如し。そを救ふべき醫は汝のみ。汝が採らん藥草の力こそは、我が唯一の頼なれ。斯くさゝやきつゝ、友は我を延いて大なる廳を過ぎ、そこを護れる禁軍《このゑ》の瑞西《スイス》兵の前を歩みて、當直士官の室に入りぬ。君は病めりと云へど、面は紅に目は輝けるこそ訝《いぶか》しけれ。さなり。我身は頭の頂より足の尖まで燃ゆるやうなり。我はそれにつきて汝が智惠を借らんとす。先づそこに坐せよ。別れてより後の事を語り聞すべし。
汝はかの猶太の翁の事を記《おぼ》えたりや。聖母の龕《がん》の前にて、惡少年に窘《くるし》められし翁の事なり。我はかの惡少年を懲《こら》して後、翁猶在らば、家まで送りて得させんとおもひしに、早やいづち往きけん見えずなりぬ。その後翁の事をば少しも心に留めざりしに、或日ふと猶太廓《ゲツトオ》の前を過ぎぬ。廓の門を守れる兵士に敬禮せられて、我は始めてこゝは猶太街の入口ぞと覺《さと》りぬ。その時門の内を見入りたるに、黒目がちなる猶太の少女あまた群をなして佇《たゝず》みたり。例のすきごゝろ止みがたくて、我はそが儘馬を乘り入れたり。こゝに住める猶太教徒は全き宗門の組合をなして、その家々軒を連ねて高く聳え、窓といふ窓よりは、「ベレスヒツト、バラ、エロヒム」といふ祈の聲聞ゆ。街には宗徒|簇《むらが》りて、肩と肩と相摩するさま、むかし紅海を渡りけん時も忍ばる。簷端《のきば》には古衣、雨傘その外骨董どもを、懸けも陳《なら》べもしたり。我駒の行くところは、古かなもの、古畫を鬻《ひさ》ぐ露肆《ほしみせ》の間にて、目も當てられず穢《けが》れたる泥※[#「さんずい+卓」、第3水準1−86−82]《ぬかるみ》の裡《うち》にぞありける。家々の戸口より笑みつゝ仰ぎ瞻《み》る少女二人三人を見るほどに、何にても買ひ給はずや、賣り給ふ物あらば價尊く申し受けんと、聲々に叫ぶさま堪ふべくもあらず。想へ汝、かゝる地獄めぐりをこそダンテ[#「ダンテ」に傍線]は書くべかりしなれ。
忽ち傍なる家より一人の翁馳せ出でゝ、我馬の前に立ち迎へ、我を拜むこと法皇を拜むに異ならず。貴き君よ、我命の親なる君よ。再び君と相見る今日《けふ》は、そも/\いかなる吉日ぞ。このハノホ[#「ハノホ」に傍線]老いたれども、恩義を忘れぬほどの記憶はありとおぼされよ。かく語りつゞけて、末にはいかなる事をか言ひけん、悉くは解《げ》せず、又解したるをも今は忘れたれば甲斐なし。これ去《い》ぬる夜惡少年の杖を跳り越ゆべかりし翁なり。翁は我手の尖《さき》に接吻し、我衣の裾に接吻していふやう。かしこなるは我|破屋《あばらや》なり。されど鴨居《かもゐ》のいと低くて君が如き貴人を入らしむべきならぬを奈何せん。かく言ひては拜み、拜みては言ふ隙に、近きわたりの物共は、我等二人のまはりに集ひ、あからめもせず打ち守りたる、そのうるさゝにえ堪へず、我は早や馬を進めんとしたり。この時ふと仰ぎ見れば、翁が家の樓上よりさし覗きたる少女あり。色好なる我すらかゝる女子を見しことなし。大理石もて刻めるアフロヂテ[#「アフロヂテ」に傍線]の神
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